帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (三十六)  忘れぬるなめりと問ひごとしける女

2016-05-22 20:00:23 | 古典

             



                          帯とけの「伊勢物語」



 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。

公任より、「深い心」と「清げな姿」と「心におかしきところ」があるという、歌の表現様式を学んだ。歌言葉には、貫之のいう「言の心」(その文脈でのみ通用していた意味)があったことを、また、清少納言からは、そもそも我々の言葉は、聞き耳異なるもの(聞く人の耳によって意味の異なるもの)」であるという超近代的言語観を学んだ。また、俊成は、歌言葉は浮言綺語のように戯れて多様な意味があり、そこに歌の深い趣旨が顕れるといった。以上のことを心得たうえで和歌を聞く。

 


 伊勢物語
(三十六)わすれぬるなめりと問ひごとしける女

 
 昔、わすれぬるなめり(忘れてしまったのでしょう…見捨ててしまったのでしょう)と、とひごと(問い言…詰問)した女のもとに、

 谷せばみ峰まではへる玉かづら  たえむと人にわがおもはなくに

 (谷が狭くて峰まで延える玉葛・どこまでも続く、仲・絶えようと、貴女に対して、我は思わないのに・どうしてそんなことを……たに間狭くて、み音・お声、まで栄える、玉且つら、絶えようとそのような人に、我は思わないのに・ものは、はかなくて)

 


 貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知る

 「わすれぬる…忘れてしまった…見捨ててしまった…思いを絶やしてしまった」「ぬる…完了したことを表す」。

「たに…谷間…女…おんな」「せばみ…狭いため」「狭い…細い…ほめ言葉(細谷川・細殿などは、よき女という意味で用いられる)」「みね…峰…高嶺…絶頂…御音…そこでのお声」「はへる…生える…這える…延える…栄える」「玉…美称」「かづら…葛…つる草…且つら…なおもまたという情態」「草…女」「ら…状態を表す」「に…対象を示す…に対して…場合・状況などを表す…の場合には」。

 

この章も、男の身のはかない性(さが)が主旨のようである。


 国文学的和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観を無視して、「谷せばみ峰まではへる」を「玉かづら」の序詞だと口をそろえて指摘する。そして歌をよく心の伝わらないものにおとしめて、捨て置くのである()。これが常識化して、世に蔓草の如くはびこってしまっているのだ(困惑)。封印したつもりが、つい破って国文学的解釈批判となってしまった。批判するだけでは不毛。修行が足りない(反省)

 

和歌は、平安時代の人々が捉えたように、「言の心」と「言の戯れ」を利して、深い心・清げな姿・心におかしきところ(生々しい心、いわば煩悩)を一つの言葉で表現して他人の心に伝える文芸である。この様式は柿本人麻呂によって確立されたのだろう(古今名集仮名序などの人麻呂に対する高い評価がそれを示している)。和歌は日本の誇るべき高度な文芸であった。

 

伊勢物語の作者は、万葉集の歌を採り入れて物語の幾つかを作った。この歌も万葉集巻第十四、相聞(お互いに言い合い聞き合う歌)にある。

 たにせばみ みねにおひたる たまかつら たえむのこころ わがおもはなくに

(谷狭み峰まで生ひたる玉葛 絶えむの心わが思はなくに……谷狭くて峰まで生える玉葛・いつまでも続くよ。仲絶える心、我は思わないのに……たに間、狭くて、山ばの峰に極まる、玉且つら・可愛くなおもまたという、そんなあなたに、もの絶える心、我は思はないのに・ものがはかなくて)


 「みね…峰…山ばの頂上」「おひ…生ひ…老い…追い…極まる(初段の、おひづきて、と同じ)…感極まる」「玉…美称」「かつら…葛…つる草…女…且つら…なおもう一度という情況」「たえむ…()絶えよう…(ものの命)絶えよう」「む…意志を表す」。

 

表記の文字は変遷しても、万葉集の歌も伊勢物語の歌も、同じ「歌の様」で、同じ「言の心」で詠まれてある。

 (2016・5月、旧稿を全面改定しました)。