帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (三十一)  あるごたちのつぼねのまへを

2016-05-17 18:28:41 | 古典

             



                         帯とけの「伊勢物語」


 
 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 

 伊勢物語(三十一)あるごたちのつぼねのまへを

 

 昔、宮の内にて、或る、ごたち(御達・宮廷女房…御発ち)の、つぼねのまへをわたりけるに(局の前を通り過ぎたので…壺ねの間辺をわたったときに)、男を・何のあだ(何にの仇…何が婀娜・何がめめしくなよなよ)と思ったのだろうか、「よしや草葉よ、ならむさが見む(武樫だって・よしよし、どうせ・草端よ、成り果てる性を見ましょう)」と言う。男、

 罪も無き人をうけへば忘草  をのが上へにぞ生うといふなる

 (罪もない人を神頼みして咎めれば、人忘れ草が、おのれの上に生える・人に忘れ去られる、と言うぞ……罪もない、人・おを、呪えば、忘れ草が、おの上に生えると言うぞ・おに見捨てられるぞ)と言うのを 、ねたむ女もありけり(妬む女も居たことよ…寝留めようとする女もいたことよ)。


 

 貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知りましょう

「ごたち…御達…宮廷の女官女房達…後発…山ばの頂点の京へ遅くくる女」「ごたち…反対語は先発(さきんだち)、それは、男君(公達・きんだち)に多いさが」「つぼね…局…女の部屋…女…壷根…おんな」「草葉…草端…おとこを侮辱する言葉…なよなよ…萎える・涸れる・離れる・折れる・逝く」「ならんさが…成るであろう性質…浮気で離別しやすい性質…涸れ果て萎え折れるおとこの性質」「さが…性…生まれながらの性質で、それがどうあろうとも、男やおとこの罪ではない」「忘草…人忘れ草…忘れ女…見捨てられ女」「草…言の心は女」「ねたむ…妬む…羨ましがる…嫉妬する…根溜む…寝たむ」「根…おとこ」「たむ…ためる…とどめる」「ありけり…詠嘆を表す…居たことよ…(そんな壷ねも)有ったなあ」。

 

三十章ばかり読んだけれども、この読み方が正当かどうかは、平安時代の人々と読後感が一致するかどうかで決まる。

先にも述べた、「源氏物語」絵合の巻の登場人物たちが、「伊勢物語」を論じ合う場面。そこに、信頼すべき紫式部の「伊勢物語」についての読後感が表われている。その原文を列挙すると、

伊勢物語は、「おもしろく、賑わしく、内裏わたりよりうちはじめ、近き世の有様を書きたるは、をかしう、見所まさる」物語ではない、真逆の物語である。

伊勢物語は、「伊勢の海の深き心を辿らずて、古りにし跡と波や消つべき、世の常のあだごとの、ひき繕ひ、飾れるにおされて、業平が名をや腐すべき」なのか、消したり腐していい物語なのかと、反論して当然の物語である。

伊勢物語は、「雲の上に思ひのぼれる心には、千尋の底も遥かにぞ見る」、他の物語に比べると、主人公も作者も下劣も下劣、最低の心と思う。

一方の物語の、「心高さは捨て難けれど、在中将の名をば、えくたさじ」、業平の、名声をば・汝おば、腐すことはできません。「みるめこそうらふりぬらめ年経にし いせをの海人の名をやしずめむ(……みる女こそ、うら振り寝るでしょう、とし経てしまった、いせおの、憂み人の汝おや、沈めるつもりなの・鎮めましょう)」・武樫おとこ化けてでるかもよ。「かやうの女言にて、みだりがはしく争ふ」、女たちは左右に分かれて、みだれがましく言い争ったのである。優劣は未だ定められず。

 

帯とけの「伊勢物語」の読みの方法は、今、間違っていないと思える。読み終えた暁に、紫式部の伊勢物語を思う心に共感できたならば、これほど嬉しいことは、この世の中に又とないだろう。