帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (十九)  ごたちなりける人

2016-05-05 17:41:31 | 古典

             



                         帯とけの「伊勢物語」



  紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の「歌論」と「言語観」に従って、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 

 伊勢物語(十九) ごたちなりける人

 

 昔、男、宮仕えしていた女人の許で、ごたち(御達・宮廷女房…後発ち)だった女を、あいしりたりける(知りあった…合い知ったのだった)。ほどなく、かれにけり(離別してしまった…涸れてしまった)。同じ所なれば、女のめには見ゆるものから(女の目には見えるのに…女のめには未だ見得るのに)、男は、あるものかとも思ひたらず(女がそこに居るものとも思っていない…残り・有るものかと思火足りない)、女、

あま雲のよそにも人のなりゆくか  さすがに目には見ゆるものから

 (天雲のように、よそよそしくも、男がなり行くか、それでも、女には・目には、君が・見えているのに……雨雲のように・降れば、よそよそしくも、男が成り逝くか、それでも、女のめには、まだ見ることができるのに) と詠んだので、男、返し、

あま雲のよそにのみしてふることは わがゐる山の風はやみなり

 (雨雲が他所にだけ雨降らせるのは、わが居る山の風が早いためなのだ……お雨が、よそにばかり降ることは、我が今居る山ばでは、女の心風が、早く・激しい、ためなのだ)と詠んだと見えるのは、また男ある人となむいひける(また他に後発ちでも合う男が居る人だよと言ったのだった)。

 


 「言の心」を心得え「言の戯れ」を知る

 「ごたち…御達…宮廷女房・女官達…後発ち…山ばの頂上に出発・到達するのが遅い女」「あいしりたり…逢い知った…相知った…合い知った…身を合わせてわかった」「おなじところ…お仕え先が同じ所…相変わらず盛り上がらないところ」「女のめ…女の目…女のおんな」「見ゆる…見える…見ることが出来る」「見…覯…媾…まぐあい」「おもひたらず…思っていない…思ひ足らず…(おとこの)思い火が足りない」。

「あま雲…天雲…雨雲…吾ま雲」「あま…天…吾間…おんな…雨…おとこ雨」「雲…天の雲…煩わしくも心にわきたつもの…情欲など」「よそ…他所…よそよそしい…心も遠く離れた感じ」。

「ふる…経る…振る…降る」「ゐる…居る…射る」「山…ものの山ば」「風…心に吹く風」「はやみ…早いので…速いので・激しいので」「なり…断定を表す」。

「また…又…他に…別に」「男ある人…他に男のある女…(後発ちでも合う)男が居る女」「いひける…(人々は別れたわけを)噂した…(この男は女に)言い伝えたのだった」。

 

ごたちのために和合ならぬ女。もとより男の性(さが)の、短い一過性のはかなさが原因であるが、それに合わせてやるのが女の器量である。このような人と夫婦になれるのは、武樫おとこの業平しかいないという事らしい。初めの歌は紀有常の娘の歌であるが、後の歌は業平とは別の普通の去って行った男の歌である。

 

「古今和歌集」 恋歌五にある業平朝臣の返歌は、

ゆきかへりそらにのみしてふることは わがゐる山のかぜはやみなり

 (……行き返り、空しく振り・経て・お雨降ることは、わが射る山ばのわが心風が早過ぎるためなのだ・思いの足りない我れが悪いのよ)。

とはいうものの、古今集の詞書によれば、業平は、夫婦になって、昼は一緒に過ごしていても、しばらくの間は、夕方になると帰って行ったのだった。にわかには、和合し難い人だったらしい。