帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百二十九)(百三十)

2015-04-02 00:18:49 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄



 藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。

江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。

このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

(題不知)                           つらゆき

百二十九 秋のよにあめときこえてふりつるは  風にみだるるもみぢなりけり

(題しらず)                          つらゆき

(秋の夜に、雨と聞こえて降ったのは、風に乱れる紅葉だったのだなあ……飽きの夜に、吾女とともに、気超えて振ったのは、心風に乱される、もみ路・もみ千、だったなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「秋…飽き」「よ…世…男女の仲…夜」「あめ…雨…天…吾め…我妻」「と…のように…と一緒に…門…言の心は女」「きこえて…聞こえて…気超えて」「き…気…気力・精気」「こえて…超えて…超越して…うわまわり」「ふり…降り…振り…身を振る…身のそで振る」「風…心に吹く風…山ばで吹く荒々しい心風」「みだるる…乱される…淫される」「る…受身」「もみぢ…紅葉…もみ路」「もみ…揉み…心をもみ…身をもみ…身もだえ」「ぢ…路…言の心は女…ち…千…多数」「なりけり…断定・気付き・詠嘆んの意を表す」

 

歌の清げな姿は、秋の夜、紅葉乱れ散る風情。

 心におかしきところは、飽きの果て方の気を超えた女の身悶え。

 

貫之には珍しく、なまなましい艶なる女の悶えを詠んだ歌。決して絵に描いた女ではない。この歌、古今集はもちろん貫之集にもない。貫之の歌で有ってはいけないかのようで、後撰集では「よみ人しらず」。拾遺集では、次の歌になっている。

秋の夜に雨と聞こえて降る物は 風にしたがふ紅葉なりけり

(秋の夜に、雨かと聞こえて降る物は、風に従う紅葉だったのだなあ……飽きの夜に、吾めと共に、気超えて振るものは、心風にしたがう、もみ路だったなあ)


 こちらの歌を、歌合などで公にした。公任は貫之の作歌ノートでも手に入れていたかな。

 

 

あらしの山もとをまかりけるにもみぢのいたうちり侍りければ 右衛門督公任朝臣

百三十  あさまだきあらしの山のさむければ  ちるもみぢばをきぬ人ぞなき

嵐山を引きあげて来た時に、紅葉がたいそう散っていたので    右衛門督公任朝臣

(朝まだ明けやらぬ嵐山が寒むかったので、散るもみじ葉を・被り、着ない人なんていない……浅、未だだったとき、荒らしの山ばの、心風・寒かったので、散り果てる飽きの端を、山ば・来なかった女ぞ、泣く)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「あさまだき…朝まだき…朝まだ明けきらない時…浅くて未だ極みの来ていない時」「あらしの山…嵐山…荒々しい心風の山ば」「さむければ…思い火たりない…情熱が無い…熱い思いが無い」「ちるもみぢば…散る紅葉…散る飽きの色…果てる飽きの身の端」「きぬ人…(もみぢ衣を)着ない人…来ぬ人…(山ばの果て)こない女」「人…人々…女」「ぞ…(人を)強く指示する」「なき…無き…居ない(全員が被り着ている)…泣き(ぞの係り結びで連体形)…泣く」

 

歌の清げな姿は、もみじ葉の降り頻る嵐山の風情。

 心におかしきところは、浅はかなおとこ、飽き満ち足りぬ間に散るのを、泣く女。


 

つらゆきの歌は和合の極致である。公任は謙譲してかな、己の浅き和合のかなしい歌をここに置いたのだろう。


 
 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。