帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 38 わびぬれば身を浮草の

2014-01-29 00:24:40 | 古典

    



               帯とけの小町集



 小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。



 小町
38


   やすひでが三河になりて、あがた見にはいでたゝじやといへるかへりごとに

わびぬれば身を浮草のねを絶えて 誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

 

文屋康秀が三河の国司となって、県(地方)見物に出かけないかと言った返事に……康秀が三日はとなって・宮こは飽きた、あがた見に、出て絶たないかと言った返事に、

(心ぼそく嘆いていたので、わが身を・浮き草のように根を絶えて、誘い水あれば、流れて往こうと思うわ……気力無くして嘆いたので君の身お、浮かれ女が、声を絶えて、誘う見つあれば、逝こうとは思うわ)。

 

言の戯れと言の心

「みかは…三河…三河の橡(国司の三等官、古今集の詞書)…三日は…新婚三日目は…見交は…身交すは」「み…見…交合」「は…特に取り立てて言う意を表す」「あがた…県(地方)…都ではないところ…京ではないところ…絶頂ではないところ」「いでたつ…出発する…出て立つ…出て止まる…出て絶つ」。

歌「わぶ…心細く思って嘆く…無気力となる」「身を…わが身を…(男の)身お」「の…所有等を表す…が…主語を示す…のように…比喩を表す」「ね…根…おとこ」「みづ…水…みつ…蜜…三つ…見つ」「いなむ…往なむ…行こう…逝なむ…逝こう」。

 

 文屋康秀はこのような歌がある。古今和歌集 秋歌下

 草も木も色はかはれどもわたつみの 浪の花には秋なかりける

 (草も木も色は変わるけれども、わたつ海の浪の花には、秋は無かったなあ……女も男も、気色は変わるけれども、ひろがりつづく、女の汝身の華には、厭きがきて涸れることはなかったなあ)。


 言の戯れと言の心

「草…女」「木…女」「色…色彩…色気…色情」「わたつみ…海…女…海の枕詞…ひろがる…つづく」「なみ…浪…波…汝身…その身…並み…普通」「花…華…栄華…宮こ…絶頂」「秋…飽き…飽き満ち足り…厭き」「けり…気付き…詠嘆」。

 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。