帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 31 今はとて 32 人を思ふ

2014-01-23 00:20:25 | 古典

    


               帯とけの小町集



 小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直接伝わるでしょう。



 小町
31


     わすれ
ぬるなめりとみえし人に

 今はとて我身しぐれとふりぬれば 言の葉さへにうつろひにけり

心変わりしたようねと思える男に……見捨てたようねと思える男に

 (いまに冬がと、わが身、時雨と共に過ごしていたので、君の言葉さえ冷たく変わったことよ……いまはの際と、わが身に、おとこしぐれが降ってしまえば、ことの端さえ衰えることよ)。


 言の戯れと言の心

「わすれぬる…気にかけなくなってしまう…心変わりしてしまう…見すててしまう」「見…思い…まぐあい」。

歌「いまは…この時…臨終…いまはの際」「しぐれ…時雨…晩秋の雨…その時のおとこ雨」「ふり…降り…経り…古り…年を経る…盛り過ぎる」「ことのは…言葉…ことの端」「こと…言…異…小門…をんな」「葉…端…身の端」「うつろひ…移ろい…変化…衰え」。

 


 小町集 32


     かへし

 人を思ふ心この葉にあらばこそ 風のまにまに散りもまがはめ

男の返歌

(人を思う心は、木の葉であるからこそ、心に吹く風のままに散り乱れるだろうよ……女を思う心は、この端であるからこそ、飽き・風のままに、枯葉・涸端、散り紛れて見えなくて当然だろうよ)。


 言の戯れと言の心

「このは…木の葉…この端…身の端…おとこ」「風…心に吹く風…飽き風…厭き風」「散りもまがふ…散り乱れる…花や葉が散り乱れ先が見えない」「め…む…推量を表す…当然の意を表す」。

 

小町の歌の「心にをかしきところ」は、薄情なおとこの性情(さが)を悩ましく嘆いている。

男の返しは、涸れ端となって散りまがうだろうよ当然だ、となる。


 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。