帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 25 夢路にはあしもやすめず

2014-01-16 00:04:38 | 古典

    



               帯とけの小町集



  小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも伝わるでしょう。



 小町
25


   (つねにくれどえあはぬ女のうらむる人に)

 夢路にはあしもやすめず通へども うつつにひとめみしことはあらず

(夢路には、足も休めず通っていても、現実には、一目も君を見たことは無い……夢の中のわが路では、あしも休めず通うけれど、現には一め見たことよ、何事もありはしない)。


 言の戯れと言の心

「路…通い路…をんな」「あし…足…中のあし…をとこ」「ひとめ…一目…一をんな」「見…目で見ること…思うこと……覯…媾…まぐあい」「こと…事…出来事…山ばの頂上に上った・浮天の波にただよった・有頂天をみたというような出来事…ごと…如」。


 この歌も23と同じ詞書あるとして聞く。

常にきても逢えない女が、それを恨む男に返した歌……常にくるけれども、事成らぬ女がうらみ言を、男に言った歌。

古今和歌集では恋歌三にある。題知らず。たぶんそこでは、「こと」を「ごと」と聞いて、次のような歌となる。「わたしは君が、夢では足しげく通うのを見るけれども、現に一目見た如きではない・やはり直にお目にかかりたい」という恋の歌ともなる。歌は多様な意味を孕んでいるのである。


 歌にはただ一つ正当な意味があるとして、それを求めてはならない。

清少納言のように、「女の言葉は聞き耳異なるもの」(歌の言葉などは聞く耳によって意味の異なるもの)と達観するべきか。または、藤原俊成のように、歌の言葉(女の言葉)は、「浮言綺語の戯れに似たれども、そこに深い旨が顕れる」と諦観すべきかも。


 

 『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。