帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 7 やよやまて山ほととぎす

2013-12-26 00:05:21 | 古典

    



               帯とけの小町集



 古
今集仮名序に、小野小町の歌についての批評文がある。

小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなる様にて、強からず、いはば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

――小野小町の歌は、昔の美女衣通姫の歌体の流れである。あはれ(哀れな…情愛が深い)ようで、それを強く表現していない。いはば、美女が悩んでいる様子に似ている歌である。(情愛、色情が)強くないのは、女の歌だからだろう。


 紀貫之が書いたと思われるこの批評に合致する歌の解釈を志向する。
今では、このような批評に同感できるような小町の歌の解釈は不在である。われわれが和歌を根本的に聞き間違えて居るのではないのか。この観点から、平安時代の文脈に立ち入って、其の時の言語感と歌論に従って小町の歌を全て紐解く、千百年以上前の美女の悩ましい声が、今の人々の心に直接伝わるだろうか。


 

小町集 7

 やよやまて山ほとゝぎすことづてむ われ世の中に住みわびぬとよ

(ちょっと待ってよ、帰る山ほととぎす、ことづけたい、わたくしこの町の中に住み辛いと思うのよ……八百夜そのままでいて、山ばのほと伽す、こと告げたいのよ、わたくし夜の中に、済み辛いのよ)。


 言の戯れと言の心

「やよや…呼びかけのことば…八百夜」「まて…待て…持続して」「やま…山…寺…山ば」「ほととぎす…時鳥・郭公…鳥…女…ほと伽す…男女夜伽す…且つ乞う」「ほ…お…男」「と…門…女」「すみ…住み…(心)澄み…(山ば)済み」「わぶ…心ぼそく思って嘆く…つらく思う…しづらい…し難い」「とよ…と思うのよ…念を押す意を表す…だよ…感嘆を表す」。


 古今集には、作者、三国の町とある。仁明天皇の后で、常康親王の母、紀種子とすると、小町がお仕えしていた人かもしれない。すると、歌は小町の代作となる。

 


 『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 古今和歌集撰者の一人、壬生忠岑のほととぎすの歌を聞きましょう。同じ言の心で詠まれてあるはずである。古今集 夏歌、
 くるゝかと見ればあけぬる夏の夜を あかずとやなく山郭公
 
(暮れたかと思えば明けてしまう夏の夜を、飽き足りないとや、鳴く山ほととぎす……来る、繰るかと見れば、明けてしまった撫づの夜を、飽き足りないとか泣く、山ばのほと伽すひと・且つ乞う)。
 言の戯れと言の心
 
「くる…暮る…来る…繰る…繰り返す」「見る…思う…まぐあう」「見…覯…媾」「なつ…夏…撫づ…愛撫…懐」「あかず…飽きない…飽き満ち足りない…満足できない」「鳴く…泣く」「山…山ば」「郭公…かっこう…ほととぎすのこと…且つ恋う…且つ乞う」「鳥…女」。

  紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。