帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 2 心からうきたる舟に

2013-12-20 00:05:33 | 古典

    



               帯とけの
小町集



 
今和歌集の仮名序に、小野小町の歌についての批評文がある。

小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなる様にて、強からず、いはば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

「小野小町の歌は、昔の美女衣通姫の歌体の流れである。あはれなるやうにて(哀れなようで……情愛が深いようで)、強からず(それを強く表現し主張していない)、いはば、よき女の悩めるところあるに似たり(美女が悩んでいる様子に似ている歌である)。強からぬは(情愛・色情が強くないのは)、女の歌だからであろう」。このように読んで、この批評に合致する解釈を志向する。

 

紀貫之は、小町の歌をただ愛でるのではなく、歌を的確に聞き取り、正確な批評を加えているはずである。当時の帝をはじめ識者や日常に歌を詠んでいた人々をも納得させた批評のはずである。ところが、この批評が納得できるような小町の歌の解釈は今では存在しない。貫之の観賞眼や批評観が間違っているのだろうか。彼の批評が納得できないのは、われわれが和歌を根本的に聞き間違えて居るのではないだろうか。江戸時代の国学者から始まり、明治から現代の国文学者の解き明かす小町の歌は余りにもつまらない。ほんとうに、そんな歌だったのか。このような地点から、平安時代の文脈に立ち入って、其の時の言語感と歌論に従って小町の歌を全て紐解く、千百年以上前の美女の悩ましい声が、今の人々の心に直接伝わるだろうか。何を、どのように、悩んでいるのだろうか。

 

小町集2

  ある人こころかはりて見えしに

 心からうきたる舟に乗り初めて ひとひも浪に濡れぬ日ぞなき

ある男、心変わりしていると、見えしに(思えたので…見ていたので)。

(自ら望んで、憂きたる船に乗り初めて、一日も世のあら波に濡れない日はない……わが心から、浮かれた男にのり初めて、一日だって汝身のために、涙に袖の・濡れない日は、ない……わが心から、浮かれた夫根に、身をまかせてより、一日だって汝身に濡れなかった日はないのよ)。


 言の戯れと言の心

「見えし…見えた…思えた…まぐあった」「見…覯…媾…まぐあい」。

歌「うき…憂き…つらい…くるしい…浮き…浮かれた」「ふね…舟…世の波を乗り切る船…夫根…おとこ」「のる…(船に)乗る…(調子に)乗る…身をゆだねる」「なみ…波…世の波…汝身…おとこ」「ぬれぬ…(波しぶきに)濡れない…(つらい涙で袖の)濡れない…(おとこ雨に)濡れない」「ぬ…ず…打消しの意を表す」「ぞ…強く指示する意を表す」。

 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり、同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」ならば古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。

貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。

 

「ふね」が夫根ならば、舟人は男と戯れるのは容易なことである。新古今集の恋歌一の曾禰好忠の歌を聞きましょう。

由良の門を渡る舟人楫緒絶え 行方も知らぬ恋の道かな

(由良の門を渡る舟人、梶の緒が絶えて、行方も知らぬ恋の道かな……ゆらめく門を、わたるふな人、こぐべきおを絶えて、行方も知らぬ乞いの路かな)。

「由良…所の名…名は戯れる。揺らぐ、触れ合って鳴る」「と…門…水門…身と…女」「ふなひと…舟人…男」「かぢ…楫…推進する具」「を…緒…おとこ」「こひ…恋…乞い…求めること」「道…路…女」「かな…だなあ…であることよ…感嘆の意を表す」。

言の戯れと言の心を知れば、「心におかしきところ」が顕れる。俊成の言う通りである。このように歌の余情を聞いて、定家は百人一首に撰んだのである。後の世の上の句は序詞であるというような奇妙な解は不要である。