帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第三 賀哀(百七十九と百八十)

2012-06-30 00:08:12 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第三 賀哀 二十首
(百七十九と百八十)


 見えわたる濱の真砂や葦たづの 千歳をのぶる数となるらむ 
                                   
(百七十九)

(見え広がる濱の真砂や、葦鶴が千歳を長らえる、君の歳数となるでしょう……見つづける端間の真さこや、あし多つの女が千とせを長らえる、見る数となるのでしょうね)。


 言の戯れと言の心

 「見…目で見ること…覯…媾…目ぐ合い…間具合い」「濱…嬪…女…端間」「まさご…真砂…真さこ…真のおとこ」「や…語調を整える…呼びかけ…問い」「あしたづ…葦鶴…鶴は千年の長寿(俗信)…悪し多つ…多情の女」「鶴…鳥…女」「ちとせ…千歳…千門背…千夜の女と男」「のぶる…延ぶる…延長する…ながらえる」「らむ…推量する意を表す…疑問をもって推量する意を表す」。


 よみ人知らず。晴れの席の飾りの「州浜台」に、作りものの葦や鶴を置いて、詠み添えた女歌でしょう。


 歌の清げな姿は、歳の賀の夫君を、妻が言祝ぐ心。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、わたしを千歳に見続け見捨てないでしょうねというところ。

 


 さきだゝぬ悔いのやちたびかなしきは 流るゝ水のかへりこぬなり 

                                    (百八十)
(先立てず、くよくよ悔い、八千たび哀しいのは、流れる水のように、亡きひとが、かえって来ないという……先発たず、後発となる悔いの八千たび哀しいのは、流れるをみなが二たび返って来ないことなのよ)。 


 言の戯れと言の心

 「さきだたぬ…先に死ねない…とり遺される…先に逝けない」「悔い…くよくよ後悔すること」「流るゝ…(水などが)流れる…身をゆだねて浮かれゆく」「水…女」「の…のように…比喩を表す…が…主語を示す」「かへりこぬ…帰ってこない…蘇えらない…繰り返さない」「なり…だそうだ…伝聞の意を表す…である…断定の意を表す」。


 古今和歌集に拠れば、男のむかし関係のあった女が亡くなった時に、弔問に遣るということで、詠んだ或る女の歌。


 歌の清げな姿は、むかしの女を亡くした男へ、今の女よりの弔問。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、相手に先だたれる身の哀しみは、二たび返らないことよというところ。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。