帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第二 夏冬 (百三十五と百三十六)

2012-06-05 00:03:32 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第二 夏冬 四十首
(百三十五と百三十六)


 あしひきの山ほとゝぎすけふとてや あやめの草のねをたゝて鳴く 
                                   
(百三十五)

(あしひきの山郭公、今日は節句といってか、菖蒲草の根を立てかけて鳴く……あの山ばのほと伽す、京といってか、端整なひとが、ねをたてて泣く)。


 言の戯れと言の心

 「あしひきの…山や峰にかかる枕詞」「山…山ば」「ほとゝぎす…鳥の名、名は戯れる、ほと伽す、郭公、且つ乞う」「ほと…ほ門…お門…おとこおんな」「鳥…女」「けふ…今日…京…宮こ…絶頂」「あやめの草…端午の節句の草…草花の名…名は戯れる、整って綺麗な女」「あやめ…文目…綾目…綺麗に整っている」[草…女]「ねをたてて…音を立てて…声をたてて…根を立てて」「根…おとこ」「を…おとこ」「鳴く…泣く」。



 梅の花ゆきにまじりて見えずとも 香をだに匂へ人のしるべく 
                                   
(百三十六)

(梅の花、雪に混じりて見えなくとも、香りだけでも匂へ、人々が知るだろう……おとこ花、ゆきに交じりて、見得ずとも、香だけでも匂わせよ、ひとがしることできるように)。


 言の戯れと言の心

 「梅の花…木の花…男花…おとこ花」「ゆき…雪…逝き…おとこ白ゆき…おとこの情念…おとこの残念」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「香…香り…色香…男の香」「人…人々…女…妻」「しる…知る…汁…潤む」「べく…べし…だろう…にちがいない(推量の意を表す)…することができる(可能の意を表す)」。

 この歌、古今集では小野篁の歌として「梅の花に雪の降れるを詠める」とさりげなくいう。それが古今集編纂の方針だからでしょう。流人として、愛する妻と引き離された情況で詠まれたと思われる恨み歌。人麻呂、道真の歌とも共通するところがある。



 夏歌は五月五日にほととぎすの鳴く風情。冬歌は梅の花に雪の降る風情。これらは、歌の清げな姿。

和歌は唯それだけではない。両歌とも、女の山ばの京での姿態を想像させるところが、歌の心におかしきところ。

 

今の人々は、歌言葉がこれほど戯れていることや「言の心」という意外な意味があることを見失ってしまった。たぶん藤原定家の何代か後に、「古今伝授」と共に埋もれ朽ちてしまったのでしょう。それ以前、定家の父藤原俊成は、歌言葉について次のように述べている。「これは浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる」。顕れるのは人の煩悩だという。

これを肝に銘じて、和歌を聞きましょう。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。