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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第三 賀哀 二十首 (百七十九と百八十)
見えわたる濱の真砂や葦たづの 千歳をのぶる数となるらむ
(百七十九)
(見え広がる濱の真砂や、葦鶴が千歳を長らえる、君の歳数となるでしょう……見つづける端間の真さこや、あし多つの女が千とせを長らえる、見る数となるのでしょうね)。
言の戯れと言の心
「見…目で見ること…覯…媾…目ぐ合い…間具合い」「濱…嬪…女…端間」「まさご…真砂…真さこ…真のおとこ」「や…語調を整える…呼びかけ…問い」「あしたづ…葦鶴…鶴は千年の長寿(俗信)…悪し多つ…多情の女」「鶴…鳥…女」「ちとせ…千歳…千門背…千夜の女と男」「のぶる…延ぶる…延長する…ながらえる」「らむ…推量する意を表す…疑問をもって推量する意を表す」。
よみ人知らず。晴れの席の飾りの「州浜台」に、作りものの葦や鶴を置いて、詠み添えた女歌でしょう。
歌の清げな姿は、歳の賀の夫君を、妻が言祝ぐ心。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、わたしを千歳に見続け見捨てないでしょうねというところ。
さきだゝぬ悔いのやちたびかなしきは 流るゝ水のかへりこぬなり
(百八十)
(先立てず、くよくよ悔い、八千たび哀しいのは、流れる水のように、亡きひとが、かえって来ないという……先発たず、後発となる悔いの八千たび哀しいのは、流れるをみなが二たび返って来ないことなのよ)。
言の戯れと言の心
「さきだたぬ…先に死ねない…とり遺される…先に逝けない」「悔い…くよくよ後悔すること」「流るゝ…(水などが)流れる…身をゆだねて浮かれゆく」「水…女」「の…のように…比喩を表す…が…主語を示す」「かへりこぬ…帰ってこない…蘇えらない…繰り返さない」「なり…だそうだ…伝聞の意を表す…である…断定の意を表す」。
古今和歌集に拠れば、男のむかし関係のあった女が亡くなった時に、弔問に遣るということで、詠んだ或る女の歌。
歌の清げな姿は、むかしの女を亡くした男へ、今の女よりの弔問。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、相手に先だたれる身の哀しみは、二たび返らないことよというところ。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。