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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第二 夏冬 四十首 (百五十三と百五十四)
蝉の声きけばかなしな夏衣 うすくや人のならむと思へば
(百五十三)
(蝉の声、聞けば、せつなく愛しいな、夏衣、薄くよ、ひとがなるだろうと思えば……背身の小枝、効けばのち愛おしく哀しいなあ、撫づこころも薄くよ、人がなるだろうと思えば)。
言の戯れと言の心
「せみ…蝉…背身…背見」「背…男」「こゑ…声…小枝…おとこ」「きけば…聞けば…効けば…効果あれば…利けば…役立てばその後は」「かなし…愛し…哀し…悲し」「なつ…夏…撫づ…愛しむ」「衣…心身を包むもの…心身の喚喩」「うすく…薄く…薄情に」「人…人々…男…女」。
けぬがうへにまたも降りしけ春霞 たちなばみ雪まれにこそ見め
(百五十四)
(消えぬ上にまたも降り敷け、春霞が立てば、深雪、稀に見ることになるでしょう……消えない上に復も降り敷け、春が済み、絶ちなば、御ゆき、稀に小そ見るのでしょう)。
言の戯れと言の心
「うへに…上に…追加の意を表す…女に」「上…うえ…かみ…女」「しけ…頻け、敷け(命令形)」「春霞…春が済み…春が澄み」「春…春情…張る」「たちなば…立ったならば…絶ちなば…絶えたならば」「みゆき…深雪…見ゆき…身逝き…御おとこ白ゆき」「まれにこそみめ…稀にこそ見め…稀に小ぞ見るでしょう…稀にしか見ないでしょう」「こそ…強調を表す…小ぞ…すこしぞ」「見…覯…媾…まぐあい」。
歌の清げなところは、薄い夏衣を着る女を艶めかしく愛しいという男心や、頻りに降り敷く雪の風情を愛でる心。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、夏歌はおとこのさがのはかさの自嘲。冬歌は女歌と聞いて、激励か命令か、繰り返し白ゆき降らせという女心。
同じ言葉が戯れて、意味が異なって聞こえることを実感すれば、あらためて清少納言の言語観の正当なことが確認できる。枕草子第三章で次のように述べた。「おなじことなれども、聞耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。
同じ言葉でも聞く耳により意味が異なるもの、それが我々(法師、男、女)の言葉である。この言語圏外の人々(外衆)の言葉には、逆に必ず文字の孕む諸々の意味が用いられず余っている。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。