帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百八十八〕風は(その二)

2011-10-02 06:58:19 | 古典

  



                                 帯とけの枕草子〔百八十八〕風は(その二)



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百八十八〕風は

 
野わき(野分…あらし)の次の日は、いみじうあはれにをかしけれ(たいそう哀れで感慨深いことよ)。たてじとみすいがいなど(立蔀、透垣など…立て子、と身、す、井、貝など)が乱れているので、せんざいども(前栽…お庭)も、たいそう見苦しく思える。おほきなる木ども(大きな木々…大きなお木くん)も倒れ、枝など(身の枝など)吹き折られているのが、萩をみなへしなど(荻や女郎花など…お木が女草など)の上に、よころばいふせる(横倒しになっている…横に這い伏している)、いと思はずなり(まったく思いもよらないことである…ほんとに心外なことである)。

かうしのつぼなどに(格子の壷などに…かう子がつぼなどに)、木の葉を(この端お)、ことさらそうしたように、こまごまと吹きいれたのは(細やかにふき入れたのは…こ間こ間と吹きいれたのは)、あらかりつる風(荒かった風…荒かった心風)のしわざとは思えない。

 
 とっても濃い色の衣の表面はぼんやり薄くなったのに、黄朽葉の織物、薄物などの小袿を着て、まことに清らかそうな女が、夜の風の騒ぎに眠れなかったので、久しく寝起きのままに、母屋より少しいざりでている。髪は風に吹き惑わされて、うちふくだみたるが(少しぼさぼさとなって膨らんだのが…ちょっと膨らんでしまってけば立ったのが)、かたにかかれるほど(肩にかかっている様子…肩に掛る程度・短い)、まことにめでたし(ほんとに愛でたい……われながら・惚れ惚れするほど綺麗だよ)。なんだかしみじみとした風情のある景色と見て、「むべ山風を(なるほどそれで山風を…なるほどそれで山ばの心風を)――」と言っているのも、心あらん(おとなの心あるのでしょう)と見ている、ときに、
もう一人・十七、八ばかりでしょう、小さくはないが、ほんとに大人とは見えないのが、生絹のひとえのたいそうほころび絶え、はなだ色も褪せてしまった薄物の宿直物を着て、髪、色艶あって、こまごまと整えて、髪の末も尾花のようで背丈ほどであったので、衣の裾に隠れていて、袴のそばに見えているときに、童や若い人たちが、根ごめにふきおられたる(根こそぎふき折られた男木を)、ここかしこに取り集め、起こし立てたりするのを羨ましそうに見て、おし上げた簾に添えている後ろ手も、をかし(可愛くて風情がある)。


 言の戯れと言の心

 「野わき…秋の嵐…飽き満ち足りる山ばで心に激しく吹く風」「たてしとみ…立蔀…立て子、門身…男と女」「すいがい…透垣…す、井、貝…女」「せんざい…前栽…前の庭」「庭…女」「木…男」。



 秋の嵐に遭ったあくる日の我が家とわれと侍女の様子。

 

口ずさんだ山風の歌は、『古今和歌集』巻第五、秋歌下にある。文屋やすひで

吹くからに秋の草木のしほるれば むべ山風をあらしといふらむ

 (吹くとたちまち、秋の草木がの萎れるので、なるほどそれで、山風を嵐と言うのだろう……吹くとたちまち、飽き満ち足りた女と男がしおれるので、なるほどそれで、山ばの心風を荒らしと言うのだろう)。


 「秋…飽き」「草…女」「木…男」「しほる…萎れる…し折る」「し…子…おとこ」「折…逝」「山風…山ばで心に吹く風…嵐…荒らし…激し」。


 この歌の詠み人に対する紀貫之の仮名序での批評は手厳しい。「ふんやのやすひでは、ことばたくみにてそのさま身におはず。いはば、あき人のよききぬきたらんがごとし(文屋康秀は、言葉巧みでその様が身に合っていない、いわばものの欲いっぱいの商人が、良い衣を着て外見を装っているようなものである)」。

歌の「清げな姿」だけを見せられ、見ている人には、この批評は理解できない。やすひでの歌の「深い心」の無さと、「清げな姿」と「心におかしきところ」の品質を問題としての批判だから。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
 
 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。