『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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出雲見聞録9

2010年04月11日 16時17分21秒 | 歴史の断層
       平成25年に大遷宮が行われるまでの御仮殿
       その後ろが屋根を葺き替え中の御本殿

【仮遷座祭】
出雲大社の御本殿を修復する際、いったん拝殿に「御神体」を仮遍座します。その神事に参加された方のお話です。

「御本殿から今の拝殿に御神体を仮遷座する神事に私も参列させて頂きました。本殿の外で我々はゴザを敷いて正座しています。夕方から始まり、4時間くらいかかりました。遠くから笛と太鼓の音が聞こえて、しずしずと行かれるんです。前には綱が張ってあって、雲と書いた紙が下がっています。その綱の中は雲の世界であるということですね。そこを白装束の神職さんたちが通って行かれる。で、畏れ多くて頭が上げられない。通り過ぎられて、ほっとして頭を上げたらちょうと東の空から満月が煌々と上っていまして、二度と体験できないなと思いました」

このような神事には、神主、神職、地域の氏子が一体となり、一同の氣を合わせて事に当たります。凛とした空気の中で、しずしずと執り行われる。そのときに重要なのは、一同の氣です。誰かが乱れていると、神事の障りになるのです。よく、「バチが当たる」という表現をしますが、本来の意味は、神事に奉納される太鼓のバチが飛ぶという事なのだそうです。氣もそぞろキョロキョロと、とんちんかんな者には、バチが飛んで来るといった喩えです。神さまが罰(バチ)を当てるわけではありません。祟りとか、罰とかといったものは、誤解されているようです。人が当てるか、当人の自業自得の所業であることが多いのです。ただ、稀に超自然的な現象があることも確かですが、その原因は本人が起こしていることと気づけば、納得がいくことです。

かしこみ、かしこみの鎮まった氣で神前に居ることと、日常の隔たりをちぢめていけば、幸多からん。両親から頂いた肉体も、内在神の鎮まる宮であります。