パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

堀川通り散策

2017年09月24日 | 日記
紫式部、小野篁の墓の隣に赤穂義士遺髪塔跡の…碑が…。



 




この辺りは(堀川鞍馬口)元「瑞光院」の境内で、赤穂義士遺髪塔があった場所とのこと。

由来によれば、
『元禄15(1702)年12月、赤穂浪士吉良邸に討入 本懐を遂げし後、翌年2月に義士四十六人が切腹する2日前、瑞光院々主の 使僧、栄海禅師は細川、松平、毛利、水野の四家の大名に預けられた四十六人から髷の髪をもらい受けた。
帰京後、大石内蔵助良雄の遺志により主君、浅野内匠頭長矩候の墳墓の傍に四十六士の遺髪の甕の器に納めて埋め、その上に遺髪塔として石塔一基を建立した。石塔には四十六人の姓名と戒名が刻まれている。
義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため、刻名されていない。
この遺髪塔は昭和37(1962)年,当地より山科に移転した瑞光院において現在も祀られている。』

瑞光院
 慶長18(1613)年浅野長政候の旧蹟地に因州(鳥取県八頭郡)若櫻城主山崎左馬允家盛候が、大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。明暦3年山崎家断絶後、第二世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩候の内室瑶泉院と俗縁にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により、赤穂浅野家の祈願寺となる。元禄14(1701)年3月長矩候江戸城において、吉良上野介への刃傷におよび浅野家は断絶となる。同年8月大石良雄當院に長矩候の衣冠を埋め亡君(冷光院殿)の石塔を建立し、以後墓参の都度同志密議の処とした。
(瑞光院由緒より) 平成17年12月13日


「義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため、刻名されていない。」とありますが、四十七士ではなかった?
泉岳寺にある四十七士の墓では、赤穂浪士は「刃」「釼」のついた戒名ですが、寺坂吉右衛門の戒名は、「逐道退身信士」となっていて、いかにも逃亡した人物というような戒名となっています。本懐後、姿を消し切腹していないのは事実のようで、「逃亡説」や「密使説」があったようですが、最終的には自首したが、 幕府の処分は受けず,のち姫路藩士につかえ,晩年は江戸麻布曹渓寺の寺男となった。延享4年10月6日死去。83歳。名は信行。意識の中では、大当たり狂言の「忠臣蔵」と史実が混同していますが 、武士道では「切腹」は武士としての名誉を保ちつつ自身の命をもって責任を取るということ。武士としての「崇高な死に方」と言われており、諸事情もあった中、「足軽」の身分と言われている「寺坂吉右衛門」には、「切腹」が与えられなかったのかも…。諸説の史料もあるようですが、「忠臣蔵」的には、浅野大学への本懐速報「密使」説が映えますね?

「刃」「釼」のついた戒名
当時の住職が、碧巌録の傑出した人物を表す箇所で『滑り易い氷の角でも平気で歩くことも、油断すれば足を切るような剣刃(やいば)の上を行くような常識で考えられない働きも自由にできる』「不可能なことを成し遂げた」というところから「刃」と「劔」の文字を、戒名に使用したとのことです。(ブログから転載)尊称として戒名に使われているのですね…。
コメント
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