パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

西院春日神社・若菜節句祭

2017年01月09日 | 日記
以前住んでいた近くに「西院」と言う地名がありました。
地理的には「西大路四条」周辺にあたります。
地元の人は、「さい」と言っていましたが、最近は「さいいん」が一般的?
ややこしくなったのは、京福電気鉄道嵐山本線の駅が「西院・さい」で、
阪急京都本線の駅が「西院・さいいん」と呼び方が異なることに起因しています。
「さいいん」という発音が普及したのは、
1928年(昭和3年)に開業した新京阪鉄道(阪急京都本線の前身)が
一般的な読み方の「さいいん」を採用して以後とのことです。
今でも、高齢者の多くは「さい」と言います。
京福電気鉄道の前身の開通が、1910年(明治43年)と、古くから「さい」と呼んでいたからかも…。

何故、「西院」と言う地名のことは知りませんでした…。

西院の西には、春日通り(別称佐井通り)がありますが、
これは平安京ができたときには佐比大路(道祖大路)です。
この大路に沿って流れていたのが佐井川で、
この川では淳和天皇の禊祓いが行われていました。
この川は平安中期には、川幅は4メートルから7メートルぐらいで、
広いところでは30メートルにもなる大きな川でした。
この川では、淳和天皇が河原で禊祓いが行われていて、
また佐比大路と四条通の東北付近には
淳和天皇の離宮(離宮淳和院)がありました。(跡地は高山寺)
この離宮が御所から見て西の方角にあったので、淳和院が「西院」と呼ぶようになり、
そしてこの地域も「西院」と呼ぶようになり、現在に至ります。(ウイキペディア等参照)
淳和天皇の縁の地が「西院」です。
  
高山寺(こうさんじ)石標 淳和院跡地の石標

  
西院春日神社境内には、淳和院南池院跡地の碑と発掘された礎石などがあります


前置きが長くなりましたが、「西院春日神社」です。
神社の由緒によれば、
『天長十年(西暦833年)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に位をお譲りになり、
淳和院(西院)にお移 りになったとき、勅諚により奈良の春日四座大神を勧請し、
守護神とされたのに始まります。
淳和天皇の皇女、崇子(たかこ)内親王の疱瘡が、春日大神様のご威光で快復されてより、
皇室から病気平癒や災難厄除けの守護の神と崇められてまいりました。』とあります。

従って、御祭神は春日大社と同じく四座ですが、二座の表記は異なります。(別名表記)
 第一殿 建御賀豆智命(春日大社・武甕槌命)
 第二殿 伊波比主命 (春日大社・経津主命) 
 第三殿 天児屋根命 (天児屋根命)
 第四殿 比売神   (比売神)

神社の参拝の栞(小さい写真をクリックすると拡大)
  

 

 

 


 
春日(佐井)通りから正面一之鳥居    二之鳥居

 
本殿中門を左右から

 
中門の中央には春の七草のお供えと「若菜節句祭の白馬(あおうま)飾り」 

 
「若菜節句祭」の説明 

  
鑽火神事の行われる拝殿        能舞台

鑽火神事(きりびのしんじ)
  
舞錐式による発火法で火を熾します(忌火・浄火)
「火鑽り杵」と「火鑽り臼」によって鑽り出されます。
忌火(いみび)とは、神道で「清浄な火」のこと。
火鑽(ひき)りで熾し、神様への供物の煮炊きなどの神事に用いる。

  
発火するまでには、かなりの力作業になります… 

  
発火すると箱に納められ、古神札の積み上げられた場所に移動 

   
古神札焼納祭

 
発火に使われた御火鑽具(みひきりぐ)がまとめられています


   
11時から「若菜粥」の受付 長蛇の列が続きます         席で待ちます       

   
番号札を机に               巫女さんが席まで配膳

 
「若菜粥」膳には、若菜のお粥・煮た子芋・梅干しと塩昆布・お茶 「酉」朱印の捺した箸紙に入った箸 



ご朱印「京都西院春日神社」

    
境外社「鏡の御印の京都西院野々宮神社」、摂社「京都西院還来神社」も頂けます


なお、野々宮(野宮)は「嵯峨野」の地名として有名ですが、斎王の住まいを「野々宮」と呼ぶようになった発祥が「西四条」だそうです。
 
西院野々宮神社の由緒


西院春日神社神社の社紋 『十五花 蔓 下がり藤』(しゅうごか つる さがりふじ)』
             春日大社の神紋と異なるところは、
             ①下がり藤に花が咲いているところ
             ②蔓が中央に下がっているところ

春日大社パンフレットより 西院春日神社パンフレットより ご朱印帖の間紙