パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

鴨東運河の橋巡り

2015年05月06日 | 日記
蹴上の浄水場のツツジを楽しんだ後、「へいあん」(行き交ったもう一艘は「みやび」)と名付けられた十石舟で疎水をめぐってきましたが、アバウトな岡崎の疎水から、マニアックな疎水に挑戦してみました。

京都生まれなので、疎水と言えば、蹴上・インクライン・動物園…とイメージが浮かびます。意識もしなかった「橋」。ガイドさんの説明を聴き、疎水の水面から橋をみて、初めて名前を知りました。普段、いちいち橋の名前など見て渡る必要がないので…。
十石舟は、①南禅寺船溜 ②動物園、美術館裏の間・岡崎道に架かる「広道橋」 ③突当りが兵安神宮、神宮道に架かる「慶流橋」 ④京都会館とみやこめっせの間・二条通りに架かる「二条橋」 ⑤平安神宮、京都会館裏の間・冷泉通りに架かる最新の「冷泉橋」 ⑥東大路に架かる「徳成橋」 ⑦熊野神社参道に架かる最古の「熊野橋」 ⑧夷川船溜(夷川ダム)でUターン。
橋桁が低い広道橋・二条橋・徳成橋を通過する時は、十石舟の屋根が30cm位下がってくるおまけつきです。

ところで、この辺りを「鴨東運河」と言うことを知っているは京都の人でも多くないのでは…。
疎水とは、灌漑(かんがい)給水・舟運・発電などのために切り開いた 水路のを意味するですが、「疎水」は京都人からすると、琵琶湖疎水、山科疎水…第二疎水と色々な名前で使っており、それらを総称した固有名詞のイメージがしています。
インクラインの下部、南禅寺橋の西、南禅寺船溜から西流し、夷川発電所から鴨川に至る部分を、鴨東運河(おうとううんが)]と言います。因みに山科疏水のことを「藤尾運河、山科運河」と言い、夷川から鴨川と川端通りの間に平行に伏見まで流れているのは「鴨川運河」。また鴨川と宇治川を結ぶ高瀬川は、日本で最初の運河でだそうです。

 南禅寺舟溜で乗船し、2つの橋をくぐって約600メートル西に向い、そこで直角に曲がり2つの橋を潜って約400メートル北に向い、そこで再び直角に曲がり2つの橋を潜って約500メートル西に向って夷川舟溜に達し,折り返して南禅寺舟溜に戻る往復約3キロメートル、30分のコースです。

1)最初の約600メートルの西行きコース
 南禅寺舟溜で乗船して周囲を見回すと、東側に「琵琶湖疏水記念館」とインクライン下部の施設があり。西行きの流れは南側にある仁王門通に沿って西進します。舟が最初に潜るのは岡崎道に架かる「広道(ひろみち)橋」。明治23年の疏水工事が完了した時は牛車や馬車が通る小さな木橋でしたが、大正2年の改造に続き平成元年の「琵琶湖疏水記念館」完成時に渡り初めをして現在に至っているとのこと。
2番目の橋は「慶流橋」で、明治28年の平安神宮創建までは「広道橋」よりも狭い木橋でしたが、神宮完成時に銅製の擬宝珠(ぎぼうし)のついた朱塗りの橋となり、神宮道に架かる現在の橋は昭和38年に改造されています。「慶流橋」を少し越えたところから、白川は疏水から分流して、石橋の「行者橋」など知恩院先を通って鴨川に至っています。
2)次の400メートルの北行きコース
 最初の600メートルに比してやや桜や若葉が少ないが、「京都市勧業館(みやこめっせ)」や「京都会館(京都ロームシアター)」の西側に沿って流れており、北上します。

最初に潜るのは「二条橋」で、疏水建設当初では幅2.7メートルの小さい木橋。岡崎地区では比較的利用度の高い橋で、改造を重ねて現在の橋は平成11年のものです。
 岡崎地区の土木設計は、平安神宮前の雰囲気を平安京らしくするために縦横の道路を直線に引いたので、疏水の流れも直角に流したが、これが成功して城郭の外堀の感じがよく出ている。
次の橋は「冷泉橋」ですが、疏水建設当初には無かった橋で、このあたりを舞台にした菊地寛の短編小説「身投げ救助業」でも有名な場所です。

3)最後の約500メートルの西行きコース
 ふたたび疏水は直角に流れて鴨川に向かうコースです。最初に潜るのは、東大路通に架かる「徳成橋」ですが、明治23年には存在しなかった。細部は不明ですが、すぐ西にある「熊野橋」が熊野神社の参道として早くから存在していたからと想像している。
「熊野橋」は鴨東運河の中でもっとも古く、現存する橋も大正13年に架けられたもので、橋桁も鉄製です。
今回の舟運航終点である「夷川舟溜」は現存する琵琶湖疏水の舟溜の中で最大規模のもので、西側に「夷川発電所」と「疏水事務所」の構築物が見え、終点。 
 ○現存する鴨東運河に架かる橋
 岡崎地区は、平安神宮の設置を契機に京都の文化ゾーンとして発展を遂げ、大型の観光バスの通過頻度も高まり、大部分の橋は改造を重ね、現存する橋は3つの橋を除いて平成になって改造されたものです。
このように、現在、鴨東運河に架かっている10橋(航行区域の他に、南禅寺橋、秋月橋、田邊橋、田邊小橋)のうち、熊野橋がもっとも古く改造された橋であり、果たして大型トラックが通っても大丈夫か?と思う外見をしており、その他の橋も数回の改造を経て現在に至っていると思われます。

 ○それぞれの橋についての補足説明

① 広道橋
 この橋も建設当初に設置されたが、京都新聞(平成元年8月18日)に広道橋の改造経過が記載されているので紹介する。
 蹴上浄水場からの水道管を疏水越えで敷設する方式として、明治44年(1911)「広道水管橋」が採用された。同寺に御所水 道の水管橋も併設され、2つの水管橋の間に木造の「広道橋」がある形となった。大正2年(1913)に改造されたが、両側に 歩道がなかった。その後両水管橋の外側に歩道が設置され、変則的な橋となったが、老朽化が目立ってきたので、平成元年(1989)に幅17m、長さ25mの歩車 道一体のコンクリート橋に一新され、同時に2本の水管橋は姿を消した。平成元年琵琶湖疏水記念館」完成時に渡り初め式が行なわれ、現在に至っている。


② 慶流橋
 こ疏水完成時に架けられたが、当時は馬車道くらいの木製小橋であった。その後明治28年(1895)の平安遷都1100年行 事として平安神宮が建設され、その参道に架かる橋として改造された。橋の擬宝珠に明治28年2月建造の刻印が残ってる。
 この朱色の塗り替え工事は、平成19年3月に実施されたが、なぜか橋には「慶流橋」の名が記されていない。
 この橋の歴史については資料不足で未完であるが、新装された大鳥居と慶流橋の朱色、新緑の東山と慶流橋の朱色のの景色は岡崎地区の有数のカメラスポットとなっている。

③ ④ 二条橋と冷泉橋
 この両橋の改造の歴史については話題性が少なく情報が少ない。地図をみると、二条通は寺町通までは細い道であるが、そこ から斜めに少し南に下がって広い道となり、二条大橋を渡ってから、斜めに少し北に上がって広い道となり、二条橋を渡って岡 崎地区で倍近い幅となり、神宮道で再び狭くなって動物園裏を通って白川通に突き当たっている。京都の歴史に弱い私の推定 であるが、二条通は岡崎公園に入るメイン道路であり、二条橋の改造頻度は数回あったと考えられる。また冷泉通は、地図上でみると鴨東運河の範囲に存在し、田邊橋のある 川端通から岡崎道までであるから、昔から存在していた道ではないと想像する。
 この両橋も平成11年と14年に近代的な橋に改造されている。
 
⑤ 徳成橋
 徳成橋は東大路通に架かる橋で、琵琶湖疏水の建設当初には無かった橋で、おそらく建設後改造が重ねられたと思うが、現在  の徳成橋は平成7年(1995)に改造されたものである。



                            「近代京都の礎(いしずえ)を観る会」の講演会 
                            中西一彌氏「十石舟めぐりと沿岸の歴史紹介」より一部抜粋編集






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