知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚』『日本の古代では、西の朝廷の影響か、将門人気なし、名誉回復のため調査』

2023-01-29 22:40:00 | 歴史・日本・中世

『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚』

『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」には、なぜか、将門の記載ないが、東日本での庶民の中での人気は凄い』

『日本の古代では、西の朝廷の影響か、将門人気なし、名誉回復のため調査』 

 

日本史の中で悲劇的な死を迎えた九人と戦闘団を外国人の視点から書かれている本『高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち』からも、この歴史感覚はある程度分かりそうです。 彼らの末路を“もののあわれ”という日本人の視点と、彼らの死に対する意味を、モリスという外国人の視点で語られている処に意義があるのではないでしょうか。

欧米人は勝利者を高らかに語っても、敗者の悲劇はあまり感動を呼び起こさない。 せいぜいシェークスピアの悲劇(創作物)でしかないというが、モリスの語りは彼ら日本人の敗者に対しても手を差し伸べようとしている。 外国にもありました『アラモの砦』が・・・。

人神系(人間が生前または死後神として祀られる信仰)の小分類として怨霊系

 

人神(ひとがみ)とは、人が没した後にその人物を神として祀る信仰形態

  • 祖霊を神格化して発生したもの(祖霊崇拝、エウへメリズム)。

天照大御神や大国主命など神話の神々

  • 生前にこの世に恨みを残して没したものが祟りを引き起こすことを恐れてこれを鎮めるために祀るもの(御霊信仰)。

天満大自在天神(菅原道真)・崇徳天皇・橘逸勢・神田明神(平将門)

  • 生前に優れた業績を残したものを死後に神として祀ることでその業績を後世に伝えようとするもの(エウヘメリズム)。

豊国大明神(豊臣秀吉)・東照大権現(徳川家康)など

 

怨霊系の「三大怨霊系」』は、

 

菅原道真
平安時代の政治家・学者。 醍醐天皇の御代に右大臣となったが、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された。 現在では「天神様」として知られ、江戸時代より学問の神様(合格祈願の神様)として信仰されている。


平将門
平安時代に坂東(関東地方)で反乱を起こした武将

崇徳院
平安時代の第75代天皇、及び譲位した上皇。

平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓がある。 京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。 民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する。

 

小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の抜粋・引用です。

ウエブ情報から引用 

『「千代田区大手町1-1」に立つ「塚」

大手町と言えば一流企業などのビルが林立するオフィス街である。 ところが、その大手町のさらに「中心」、「東京都千代田区大手町1-1」に建っているのが「将門塚」と呼ばれる。 

 

「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した

平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。 桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。 そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。 そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。 しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷・平貞盛らに追討される。 その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。

 

京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」

王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。 それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。 天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏、呪殺の祈祷を依頼している。 武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。 その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇に投げ入れ、賊徒(将門)の形代である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。 すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。

 

「怨霊化」した菅原道真との違い

天慶のころと言えば、あの菅原道真の怨霊が猛威をふるっていた時代である。 獄門にかけられたあと、将門の霊は怨霊となって出現してもおかしくなかった。 ところが意外なことに、将門の霊は死後怨霊化して朝廷・貴族を襲うことはなかった。 というのは、京都には将門の怨霊を「御霊」として祀り上げたという神社が存在していないからである。 どうしてだろうか。

 

もちろん、将門の怨霊化をまったく考えていなかったわけではないらしい。 朝廷は天慶の乱での戦死者を敵味方の区別なく供養するようにとの命令を出すとともに、関東地域の役人の大刷新をおこなっている。 それによって怨霊化の芽が摘み取られてしまったのだろうか。 わたしは別の理由があったと推測している。 当時の宮廷社会での怨霊の候補者は、その社会内部に属していた者、自分たちと濃密な社会関係にあった者であった。 そうした関係性に欠けていた将門に対して、貴族たちは怨霊を発生させる「後ろめたさ」や「同情の心」を抱くことがなかったのである。

 

語り継がれるほどに、神格化されていく

怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。 賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。 そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。

京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。 しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。 その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。

 

関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」

京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。 しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。 その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。 かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。 京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。

 

茨城県坂東市岩井の國王(こくおう)神社は、将門の戦没の地ということで将門の霊を祀る神社である。 たとえ京都の朝廷からは朝敵として極悪人扱いされようとも、在地の人びとやその他の地域の民衆には、自分たちの思いを体現してくれた悲劇の英雄という思いがあり、それが在地・民間での将門伝説を支え続けたのである。

 

復讐ではなく、鎮魂を求める「祟り」

将門の祟りは、復讐のための祟りではない。 それは祀り上げ=鎮魂を求める合図なのである。 もっとはっきり言えば、祀り手側の「思い」、すなわち、将門の霊は怨みを残して死んだはずなので、その怨念を鎮めなければならないという「思い」が、飛ぶ首や天変妖異、病気などの祟りとして言説化されたものなのである。

 

光を放った将門塚から異型の武者が現れた

ところで、この将門塚をめぐる伝説は、内容にかなりの差異はみられるが、そうとう古くからいろいろと語られていたらしい。 例えば、『永享記』に「平親王将門の霊を神田明神と崇め奉る」とあり、謡曲「将門」にも「神田明神」が将門を祀った社だと語られているので、この伝説は室町時代にはすでにかなり広く知られていた。

 

 

家康の江戸入府で、事実上の神仏分離

徳川家康の江戸入府時、江戸幕府はただちに江戸城の普請と城下町の建設に取りかかり、このとき将門塚の脇にあった神田明神も、日輪寺も移転させることにした。 神田明神はいったん山王権現とともに駿河台に、さらに元和2年(1616)、現在地の湯島(外神田)に移された。 日輪寺のほうは浅草に移された。ある意味でこのとき、神仏分離がなされたのである。

 

「将門様のお社」として定着した神田明神

移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。 神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。 神主には将門の末裔という芝崎氏が任命され、代々世襲で神事をおこなった。 興味深いことに、神田明神は江戸城の鬼門、山王権現は裏鬼門に配置された。

 

 

実は、将門の霊は「第一座」ではない

祭神は当然のことながら、将門の霊が第一座と思われる読者が多いにちがいない。 ところが、違うのである。現在の主祭神の第一座は大己貴命、第二座が少彦名命であって、平将門は第三座という扱いになっている。 しかも、あまり知られていないが、第三座になったのも昭和59年(1984)のことで、それまでは摂社にすぎなかったという

 

明治時代に「追放されなかった」のは幸運だ

これには、明治時代に再び天皇親政となったことに由来する複雑な経緯、すなわち、文明開化期の政治的・宗教的状況が深く影を落としている。 当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。 もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてでも留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。

 

例祭をボイコットした江戸っ子たち

徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。 神田神社と日輪寺が移転した後の「将門塚」は、さすがに潰すのははばかられたらしく、そのまま大名屋敷のなかに留め置かれた。  

 

 小松 和彦(こまつ・かずひこ)

民俗学・文化人類学者 1947年東京都生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。専攻は文化人類学・民俗学。信州大学助教授、大阪大学教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長を歴任。日本の歴史・文化の周縁に姿をくらます鬼・異人・妖怪などを手がかりに、日本人の心の奥底に潜むものを探る研究を続ける。2013年紫綬褒章受章。2016年文化功労者。著書に『神隠しと日本人』『妖怪文化入門』『鬼と日本人』(以上、角川ソフィア文庫)、『憑霊信仰論』『日本妖怪異聞録』(以上、講談社学術文庫)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)など多数。

 

標題『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」には、なぜか、将門の記載ないが、東日本での庶民の中での人気は凄い』を、今後も調べていきたいと思っています。

(記事投稿日:2023/01/29、#623)

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