知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『古代は、古代人は凄い 7(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 3)』

2024-02-11 21:30:15 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 7(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 3)』
『古代ローマ帝国には、淫蕩帝伝(2)・放埒帝伝(2)・残虐帝伝(2)等、悪評判の皇帝(ネロもその一人)もおりましたが、約1500年も存続』
『世界史上に有名な「ビザンチン帝国」「大英帝国」と比較のために備忘録に』

世界帝国ローマの時期区分

ウエブ情報から引用

世界史上最大最長の、ローマ帝国の歴史に『第5代ローマ皇帝ネロの光と影』の切り口から勉強に入りましたが、今後の調査のために、ローマ帝国史の抜粋を備忘録にしました。

ローマはグローバル世界の様々な文化と技術を吸収したからこそ、今日にまで伝わる伝統を残せた。 その上に政治体制が、特別に進歩していました。

ローマの国政を牛耳っていたのは3つの要素です。 
❶コンスル権限に着目すれば、完全に君主政で王政のように見える。
 コンスルとはローマの行政機関である政務官のトップ。 
 コンスルは2名おり、1年間務める。
❷元老院の権限に目をやれば、今度は貴族政のように見える。
 政務官を経験した者が集まる元老院は、実際にはローマの貴族が集まり、
 貴族の要求を取りまとめる場所。
❸民衆の権限に目を向ける者がいたなら、明らかに民主政のように見える。
 「民衆の権限」という点では、ローマにも民会があり、また財産が少ない者
  の意見を訴えるための平民会もありました。
これら3つの要素がそれぞれに形をとってローマの国政を治めてきた。

君主制・貴族政・民主制の要素を持った帝国は、建国から滅亡まで、約1,200年と言われますが、広義にとらえれば、次のように2200年余とも捉えられます、
古代ローマ帝国と言えば、東アジアの漢や唐、さらに近代の大英帝国や現代のアメリカとも比較されることが多い「世界帝国」「超大国」で、西洋古代最大の帝国です。 

伝説では紀元前753年4月21日に都市国家として建国されたというローマは、その後次第に支配地域を拡張、一部(東ローマ)は1453年まで、実に2200年以上にわたって存続した。 前8世紀ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まり、王政、のち共和制(前509〜前27)を経て、前27年内乱、を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行。 

特に帝政ローマの時代は、地中海を中心に西ヨーロッパから黒海沿岸、中東、北アフリカまでを支配し、帝国の記憶・古典文化・キリスト教はその後のヨーロッパ社会の土台となった。 また、繁栄と滅亡のドラマチックな対照から、「ローマはなぜ滅んだか」は長年人々の関心を集めてきました。

最盛期の五賢帝時代(96〜180)その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となった。 2世紀末から衰退し、395年東西に分裂。 東ローマ帝国は1,453年まで続くが、西ローマ帝国は476年、オドアケルに滅ぼされた。 学術・芸術ではギリシャの模倣の域を出なかったが、法制・軍事・土木面にすぐれ、後世に大きな影響を与えた。 (帝政開始から西ローマ帝国の滅亡までを古代ローマ帝国)それ以降を中世ローマ帝国とも称する。

ローマの歴史の段階     任期                 年数(概算)
ローマ王国         紀元前753年〜紀元前509年      244年
ローマ共和国      紀元前509年〜紀元前 27年       482年
古代ローマ帝国   紀元前 27 年〜西暦 1453年    1500年
(西ローマ帝国   西暦395年〜西暦 476年            81年)
(東ローマ帝国   西暦395年〜西暦1453年   1058年)  
                                                                          2226年 

世界史上の巨大帝国との比較

ビザンチン帝国の段階                任期      年数(概算)
ビザンチン初期                西暦  330〜西暦 843   513年
中期ビザンチン時代          西暦  843〜西暦1204        361年
ビザンチン時代後期    西暦 1204〜西暦1453   249年
(コンスタンティノープル陥落)                             1123年

大英帝国の段階      任期        年数(概算)
大英帝国の開始         西暦1497〜西暦1707    210年
第1大英帝国     西暦1707〜西暦1783     76年
第2大英帝国     西暦1783〜西暦1815       32年
大英帝国の崩壊          西暦1945〜西暦1997      52年  
                         370年

西ローマ帝国が滅亡した理由・原因
西ローマ帝国の滅亡の原因は国内のクーデターによるものです。 このクーデターには西ローマ帝国の政治情勢が深く関わっていました。 もとよりローマ帝国はゲルマン人による侵攻の危機にさらされていました。 ゲルマン人としても豊富な資源を有するローマ帝国は非常に魅力的でした。

そしてローマ帝国が東西に分裂した好機をゲルマン人が見逃すわけもなく、これ幸いとばかりに攻撃してきます。 東ローマ帝国は土地柄攻めにくく、また首都の防御をしっかりと固めていたため、ゲルマン人は西ローマ帝国に的を絞り、侵攻するようになりました。

ゲルマン人による侵略だけでなく、西ローマ帝国は内政にも悩まされていました。 西ローマ帝国は国教であるキリスト教の影響が非常に大きく、そのトップの座である教皇の影響力は皇帝とほぼ変わらないほどだったのです。

国の分裂によって教皇も西ローマ教皇、東ローマ教皇と分かれることとなりましたが、西ローマ教皇として任命されたレオ1世は皇帝の仕事や役職を独断で監督するようになります。 そして西暦445年にはウァレンティニアヌス3世が「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」と発表し、教皇の絶対性を主張したのです。

軍事面においても皇帝の影は薄く、重要な役割はほとんど部下である将軍たちが対応していました。そして西暦476年、軍人であったオドアケルが「もはやローマに皇帝は必要ではない」と主張し、クーデターを起こしました。

西ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
クーデターによって西ローマ帝国の皇帝は廃位となりました。 それを知った東ローマ帝国の皇帝ゼノンはオドアケルを称え、ローマ帝国のイタリア領主という役職を与えました。 オドアケルはこの役職に恥じぬ働きをし、西ローマ帝国内の内乱を治め、帝国内は一時的に復興することとなりました。しかし西ローマ帝国の状況を知ったゼノンはオドアケルの存在がやがて自分を脅かすことになるのではと、東ゴートの王テオドリックにオドアケルの殺害を命じます。

西暦493年、テオドリックはイタリアへ侵攻し、オドアケルを打ち負かしてイタリアを占拠したのち、彼を殺害しました。オドアケル死去後はテオドリックがイタリア王を名乗るようになります。オドアケルとテオドリック、優秀な2人の統治によって西ローマ帝国の国力は回復し、繁栄の時代を迎えました。
ここまで読んでいただいた方はお分かりだと思いますが、西ローマ帝国は俗に言う「滅亡」はしていません。そのため西ローマ帝国が「滅亡」したという表現は不適切だという声が上がっています。
多くの歴史家は「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」という見解を示していますが、何代も続いてきた皇帝制度は西暦476年に廃止されていますので、この記事においては滅亡という表現を使わせていただきます。

東ローマ帝国が滅亡した理由・原因
東ローマ帝国は一度十字軍の侵攻によって滅亡していますが、その後再興し、約200年の統治の後オスマン帝国により完全に滅亡しました。 東ローマ帝国は主要な国々と接していたことから、攻められやすい国でした。 そのため東ローマ帝国の初代皇帝であるアルカディウスは首都の防御を固め、難攻不落の城壁を築きました。

西暦600年頃を境に勢力を増していたイスラム帝国により領土が縮小するものの、国家としては安定していたと言えるでしょう。 しかし西暦1204年、第4回十字軍の遠征によって首都コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡しました。 実はこの時東ローマ帝国の政権はひそかに亡命しており、旧帝国領で新たに東ローマ帝国を再興します。しかしこの統治も長くは続きません。

西暦1352年のオスマン帝国オルハンによって攻撃されて以来、東ローマ帝国とオスマン帝国は何度も戦いを繰り返しました。西暦1453年、オスマン帝国は10万もの兵で首都コンスタンティノープルを包囲します。対して東ローマ帝国の兵は7千。戦いの結果は見えていましたが、ローマ帝国兵士は2ヶ月にもわたって抵抗を続けました。
オスマン軍の総攻撃により、とうとうコンスタンティノープルは陥落。この時の皇帝コンスタンティノス11世はオスマン軍に特攻して行方知らずとなり、そして東ローマ帝国は完全に滅亡することとなりました。

東ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
東ローマ帝国はオスマン帝国により侵攻され、滅亡しました。 滅亡後はオスマン帝国に領土を吸収されています。
なお東ローマ帝国領土であったモレアス専制公領やトレビゾンド帝国は、オスマン帝国によってどちらも滅ぼされてしまい、第4回十字軍の時のように地方からの復興とはなりませんでした。
ちなみに陥落前後のコンスタンティノープルでは多くの有識者たちが古代ギリシャ・ローマの文献について研究していましたが、オスマン帝国の侵攻によって西欧へと亡命しました。これが後のイタリア・ルネサンスに大きな影響を与えたとされています。

古代ローマ帝国の前の『ローマ王国』『ローマ共和国』と合わせ、これからも興味津々です。
(記事投稿日:2024/02/11、#725)

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