『古代は、古代人は凄い 6(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 2)』
『大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていた』
『「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設』
第5代ローマ皇帝
ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス
ウエブ情報から引用
世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? と聞いてはいますが、やはり知りたいのは真実です。 先ずは波乱万丈の皇帝ネロと実母との凄まじい関係です。
真実はどこに、再度検証する『大英博物館のT・オッパー上席学芸員は、ネロは歴史の「被害者」と』
彼は皇帝として若すぎました。 当時起きた様々な問題は、ローマの社会が内部に抱えた緊張に起因し、ネロ個人の態度や政策とは関係ありません。 もし彼が実際より50年遅く皇帝になっていたら、全く違う評価を受けたでしょう。
ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にあるまじき逸話が残る。 しかし、その多くは創作の可能性が高いという。 出火の際にネロはローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。
現代のフェイクニュースと同じです。 極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいていたとオッパー氏はいう。 ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に取って代わったのだった。 これは、歴史を学ぶ者に多くを考えさせる。 ネロ悪人像の端緒をつくったタキトゥスは、世界中の生徒学生がその名を学ぶ歴史家中の歴史家。 そのような高名な人物でさえ、歴史をゆがめる作業に、結果的に加担した。 物事を客観的に評価し、記述することの難しさを、改めて思う。
黄金宮殿
ローマ中心部の巨大遺跡コロッセオに隣接する丘の上にネロが建設した「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)、「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設。 ネロの死後は地中に埋もれ、後世その上に「トラヤヌス帝の浴場」などがつくられたこともあり、いったん忘れ去られた。 ルネサンス期に一部が発掘され、その壁に描かれた唐草模様風の曲線装飾「グロテスク様式」は、当時の画家ラファエロに大きな影響を与えたという。
「黄金宮殿」の内部は、高い天井の部屋が連なり、複雑に入り組んでいた。 誘導案内がまだ十分整備されていないせいか、途中で迷いそうになる。 壁の一部には曲線の文様が残る。 地中だけに薄暗いが、かつては「グロテスク様式」を際立たせるよう採光が工夫され、光に満ちた空間だったという。
「当時の画期的な技術に基づいた建物です。 ネロは、宮殿を築いた建築家や都市計画家に、大火後のローマ再建も担わせ、防災対策を施した街を築きました」。 宮殿の修復を指揮したコロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長(61)は、こう語った。
――ネロはどんな皇帝だったのですか。
「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。 彼は、セヴェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。 災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」
――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。 彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」
――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと 粗暴な印象は拭えません。
「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。 同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」
『古代は、古代人は凄い(第5代ローマ皇帝ネロの光と影』についてなお今後も調べていきたいと思っております。
(記事投稿日:2024/02/08、#724)
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