斎藤秀俊の眼

科学技術分野と水難救助、あるいは社会全般に関する様々な事象を一個人の眼で吟味していきます。

一声かけたらたくさんの学生が集まりました

2011年03月19日 19時57分34秒 | 長岡技術科学大学の広報
特に、材料開発工学課程4年生には2時間前にお願いしたにもかかわらず、たくさん集まってくれました。とてもうれしく思いました。

長岡市内で活動を開始しました

2011年03月19日 16時32分34秒 | 長岡技術科学大学の広報
避難所にはいって、放射線に関する相談コーナーを開始しました。とにかく避難してこられた方々の思いをしっかりと聞いています。いろいろなお話を聞いていると、海岸のご遺体を確認して、身元のわかった方からだびにふしてこられたなど、ほんとうにたいへんな思いをされてきたことがわかりました。


学生ボランティアを招集しました

2011年03月19日 16時06分12秒 | 長岡技術科学大学の広報
これから福島県などから避難されてくる方が多くなるので、それにあわせて学生ボランティア講習会を急遽開催しました。今後、必要に応じて学生ボランティアを大学より派遣していきます。


途中でみたもの

2011年03月19日 05時38分16秒 | 長岡技術科学大学の広報
高速道路の凹凸は中越地震のときの凹凸にくらべればおとなしいものでした。補修もそうとう人員をつぎ込んだおかげか、ほとんど終了していました。

行き(17日夜ー18日正午)ほとんど物資輸送の車をみることができませんでした。みるのは、自衛隊の車列と各県の警察機動隊の車列でした。とくに17日深夜は降雪とともに路面凍結となっていたので、車列が30-40km/hで動いていました。四国4県警の車列と福岡県警の車列が印象的でした。長岡からきたわれわれにとっては、この雪道は日常だったので、どうってことはありませんでした。

仙台から先は上下線ともますます車の量が減りました。印象としては宮城県の救援に振り向けられているように思いました。前述の四国、福岡部隊は、岩手に向かっているようでしたが。一関市内に入ったのが午前7時前。市内のガソリンスタンドには給油を待つ車がながいながい車列をつくっていました。一晩すごしたようで、窓ガラスに霜がついていました。

一関からさらに北進するも車のとおりはますますなくなり八戸道では上下線ともしばらく車をみないような状態が続きました。八戸市内でも給油所は営業を停止して、緊急車両に対する給油に限定していました。一関ほどの混乱はありませんでした。市内では、津波のまれた埠頭をとおり、惨状をまのあたりにしました。しかしながら、三陸沿岸に比べればまだましなのかもしれません。食料品として干物が比較的安定して販売されていました。

帰り(18日正午ー18日22時半)八戸道から盛岡にかけて、車列は自衛隊のみ。上下線とも物資の輸送はほとんどありません。仙台が近づいた19時ころから高速も混み始めて、のぼり東京方面は活動を終えた警察、消防、自衛隊の車列が多数走っていました。くだり盛岡方面は物資輸送のトラックの車列が連続して走っていくようになりました。物資輸送が本格化したように感じました。

安達太良PAで給油しようかと思ったら、閉店していました。そのまま磐越道にのり磐梯山SAでGSによったら、こちらには燃料がありました。

今回は被災地があまりにも広範で、まずは宮城県をめざそうという車列が多いように思いました。岩手三陸にも救援がほしいし、福島のいわきは救援がほとんどこないようで、いずれもたいへんな状況です。とくに燃料の補給が最優先されるべきだと感じました。仙台から先の東北は、距離が想像以上に長くて、車両の燃料が持ちません。岩手県内の高速道給油所に燃料をたくさん供給しないと、そこから枝分かれで三陸にむかうにも向かえません。磐越道郡山JCTから東に向かえばいわきにはアクセスできます。でも東京の物資は宮城方面にいってしまうのでしょうか。

あまりにも被災地が広範囲すぎます。被災地からの被災者大移動が本格化するのは時間的にそれほど遠くないのではないか。