今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

素盞嗚神社(広島県福山市新市町大字戸手1-1)

2023年09月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月3日

素盞嗚神社
備後国一宮
「祇園祭発祥」の神社で、境内は巨旦将来の屋敷跡と伝わる

鳥居



額には「素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)」



参道を歩くとピクニックをしている家族や遊具で遊ぶ子供達の姿があり、地域に根ざした神社だと感じた
神門前の石柱には「八紘一宇」「武運長久」の文字が彫られている



狛犬1






随神門



随神像






鳥居から社殿までは直線で結ばれ、周囲は高い木々に囲まれている



手水舎



神楽殿
例祭「祇園祭」7月15日
素盞嗚神社の祇園祭は、喧嘩神輿で有名となっている
祇園祭にはここに3基の神輿が納められる



現在では、京都の祇園祭をはじめ、博多祇園山笠など日本全国に広がっている祇園祭
その祇園祭の発祥が、こちらの素盞嗚神社だという



元々祇園祭は、疫病神であるスサノオを鎮めきれず、町中から退去して頂くために行われていた祭りだった
町を神輿で巡りスサノオの分霊をすべて集め、御旅所(現在では新市神社)に引っ越して頂くというもの



狛犬2






拝殿
入母屋造瓦葺



社伝によれば天武天皇の7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる
後に遣唐使であった吉備真備が天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請
さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされている



後に神仏習合によって仏教系の神である牛頭天王を祭神とするようになり、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた
本堂である本地堂(現 天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた



明治の神仏分離により、神社の道を選んだ
当社の別当僧は還俗して神官となり、祭神は本来の素盞嗚尊に改め、現在の社名に改称した



本殿
入母屋造檜皮葺
備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる
祭神:素盞嗚尊
配神:稲田姫命 - 素盞嗚尊の妃
   八王子- 素盞嗚尊の御子神



蘇民神社・疱瘡神社



「茅の輪くぐり」発祥の地
素盞鳴尊が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた
弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断った
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、素盞鳴尊を泊めて厚いもてなしをした
素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と教えた
茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになった



因みに当社の敷地は、素盞嗚尊に滅ぼされた弟 巨旦将来の屋敷跡といわれる



戸手天満宮
瓦葺き入母屋造りの仏式の建物
元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺「早苗山天竜院天王寺」の本堂






明治維新後の廃仏毀釈の際、祭神に菅原道真を奉祀して守り通した



平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)



福山市にある二つの「一宮神社」
両者には規模の大小はあるものの、歴史を調べると二つとも興味深い



帰り際、境内で遊んでいる子供達に元気のよい挨拶をされた
気持ちよく駐車場に戻り、次の目的地に向かうことができた



撮影 令和5年6月3日
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