訪問日 令和2年9月14日
鳳凰山 甚目寺(通称:甚目寺観音)
この日、最初に訪れたのは、重文の三重塔を持つ甚目寺(じもくじ)、数年前に訪れた事がある
南大門 (重要文化財)
鎌倉時代初め 建久7年(西暦1196年)の建築
聖観上人が寺の再興をはかった折、源頼朝の命で梶原景時が奉行となり普請したもの

柿葺、三間一戸楼門、入母屋造
街中にある寺だけに視界に電柱や電線が入ってくる

「木造金剛力士像(愛知県指定文化財)」

寺のホームページによると、仁王像は運慶作と伝えられているとのこと

境内には人馴れした鳩がいる。以前訪れた時には本堂で餌を売っていた
餌を貰うため女性の周りに集まる鳩

南大門側にある「手水舎」

三重塔(重要文化財)
この塔を拝観するためにこの寺を訪れた

高さ28mで、三重塔としては日本有数の高さを誇る

江戸時代の初め 寛永4年(1623年)9月の建築
名古屋両替商 吉田半十郎政次の寄進による

電線が入り込まない場所を探す

塔が好きでつい枚数が多くなってしまう
実際、撮った写真のの5~6割に塔が入っている

「案内板」

「梵鐘(愛知県指定文化財)」
鎌倉時代作、建武四年(1204年)三月廿日の銘

「不動堂」

「十王堂内部」
十王とは、仏教や道教などにおいて死者の魂を裁く十人の裁判官

閻魔大王像をはじめとする十王像と、三途の川で亡者の衣をはぎ取るという奪衣婆像が安置されている





枚数が多くなるので、あとはまとめて

「六角堂」

「手水鉢」
東門側の手水鉢は、鳩の水飲み場になっていて、人間が気を遣う(笑)

東門(重要文化財)
銅版葺、四脚門、切妻造
室町時代、寛永11年(1634年)の建造。桃山時代の様式を残している

「石仏群」

これには思わず吹き出してしまった

「釈迦堂」

「本堂」
推古5年(597年)のこと、伊勢甚目村の漁夫、龍麿の網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めた
これが甚目寺の始まりと言われている

法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹

扁額には山号「鳳凰山」
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したことから、甚目寺は、勅願寺となった
天智天皇より宝鏡を下賜され、続いて天武7年(679年)に天武天皇から鳳凰山の額を勅賜した

本尊は「聖観音像」
高さ一尺一寸五分の秘仏であり、本堂に安置される「十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)」の胎内仏

聖観音像は、百済を経て日本へ渡り、敏立14年(585年)に海中に投じられた三尊仏の内の一尊
他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺に、勢至仏は九州大宰府の安楽寺にある


天正13年(1586年) 天正地震による被害、明治6年(1873年)火災により 本堂が全焼する被害
明治24年(1891年) 濃尾地震による造営物の倒壊・破損を経て、平成4年(1992年) 本堂が再建された

「明王堂」

「弘法堂」

「秋葉堂」

天気も回復し塔の姿が青空に映える

撮影 令和2年9月14日
鳳凰山 甚目寺(通称:甚目寺観音)
この日、最初に訪れたのは、重文の三重塔を持つ甚目寺(じもくじ)、数年前に訪れた事がある
南大門 (重要文化財)
鎌倉時代初め 建久7年(西暦1196年)の建築
聖観上人が寺の再興をはかった折、源頼朝の命で梶原景時が奉行となり普請したもの

柿葺、三間一戸楼門、入母屋造
街中にある寺だけに視界に電柱や電線が入ってくる

「木造金剛力士像(愛知県指定文化財)」

寺のホームページによると、仁王像は運慶作と伝えられているとのこと

境内には人馴れした鳩がいる。以前訪れた時には本堂で餌を売っていた
餌を貰うため女性の周りに集まる鳩

南大門側にある「手水舎」

三重塔(重要文化財)
この塔を拝観するためにこの寺を訪れた

高さ28mで、三重塔としては日本有数の高さを誇る

江戸時代の初め 寛永4年(1623年)9月の建築
名古屋両替商 吉田半十郎政次の寄進による

電線が入り込まない場所を探す

塔が好きでつい枚数が多くなってしまう
実際、撮った写真のの5~6割に塔が入っている

「案内板」

「梵鐘(愛知県指定文化財)」
鎌倉時代作、建武四年(1204年)三月廿日の銘

「不動堂」

「十王堂内部」
十王とは、仏教や道教などにおいて死者の魂を裁く十人の裁判官

閻魔大王像をはじめとする十王像と、三途の川で亡者の衣をはぎ取るという奪衣婆像が安置されている





枚数が多くなるので、あとはまとめて

「六角堂」

「手水鉢」
東門側の手水鉢は、鳩の水飲み場になっていて、人間が気を遣う(笑)

東門(重要文化財)
銅版葺、四脚門、切妻造
室町時代、寛永11年(1634年)の建造。桃山時代の様式を残している

「石仏群」

これには思わず吹き出してしまった

「釈迦堂」

「本堂」
推古5年(597年)のこと、伊勢甚目村の漁夫、龍麿の網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めた
これが甚目寺の始まりと言われている

法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹

扁額には山号「鳳凰山」
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したことから、甚目寺は、勅願寺となった
天智天皇より宝鏡を下賜され、続いて天武7年(679年)に天武天皇から鳳凰山の額を勅賜した

本尊は「聖観音像」
高さ一尺一寸五分の秘仏であり、本堂に安置される「十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)」の胎内仏

聖観音像は、百済を経て日本へ渡り、敏立14年(585年)に海中に投じられた三尊仏の内の一尊
他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺に、勢至仏は九州大宰府の安楽寺にある


天正13年(1586年) 天正地震による被害、明治6年(1873年)火災により 本堂が全焼する被害
明治24年(1891年) 濃尾地震による造営物の倒壊・破損を経て、平成4年(1992年) 本堂が再建された

「明王堂」

「弘法堂」

「秋葉堂」

天気も回復し塔の姿が青空に映える

撮影 令和2年9月14日
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