今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

陀羅尼山 蘇悉地院 財賀寺(愛知県豊川市財賀町観音山)

2020年10月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月13日

陀羅尼山 蘇悉地院 財賀寺
仁王像が重文に指定されていることを知り、運が良ければ写真を撮る事ができると思い訪れた

<バス利用拝観案内によると>
①仁王門・仁王像(P有)→②本堂(文殊堂P駐車 徒歩移動)→③文殊堂

観音山の中腹から山麓にかけて伽藍があるため、カーブの多い山道でを走る
初めて訪れるため何処に何があるかも分からず、仁王門を見逃し、文殊堂近くの駐車場に着く



「手水舎」



文殊堂(登録有形文化財)
平安中期の三河守大江定基は三河国に赴任中、愛妾力寿と死別したことをきっかけに世の無常を感じ出家し寂照と号した
大江定基の念持仏が財賀寺文殊堂に伝わる文殊菩薩(秘仏)であるとされる



大江定基ゆかりの文殊菩薩(秘仏)のほか、五大明王像、地蔵菩薩立像を安置
安政6年(1859年)の再建。木造平屋建、瓦葺






花の名前は知らないが綺麗に咲いていたので柄にも無く撮ってみた



「鐘楼」



「三十三観音堂」



数年前までは他人の為に合掌していたが、他人事ではない年齢になってきた



「本坊」
抹茶接待(500円)もあるようだ



周囲を探しても目的の場所が見つからない、ランニングをしている男性に訪ねると階段の上に本堂があるという



男らしく「男子厄除坂」を上がる



息が切れ苦しくなると周囲の石仏を撮る(笑)



本堂(登録有形文化財)
神亀元年(724年)聖武天皇の勅願により行基菩薩開闢。弘法大師中興
最盛期には七堂伽藍を有し、山内外に数百の院坊を備えていた



源頼朝が平家討伐を祈願、そのお礼として本堂ならびに仁王門を再建、寺領千三百石余を寄進した
文政6年(1823年)棟梁岡田五左衛門による再建









内陣と外陣を格子によって隔て、内陣壇上の厨子(重要文化財)に本尊千手観音(秘仏)
眷属である二十八部衆像(豊川市指定文化財)、宝冠阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)などを安置



本堂内陣は特別拝観(300円)になる



帰りは「女子厄除坂」をトボトボ歩いて下りた



「慈晃堂」
本堂から階段を下りる途中にある



「弘法大師像」
仁王門の場所が分からずランニングしていた男性に再び尋ねる



5分ほど歩くと下りの階段があったが、また上ってくることを考えると急に足が動かなくなり諦めた
三度男性に車で行くことができないかと尋ねると駐車場があるという



車で山道を下りて行くと男性が仁王門近くで待っていてくれ駐車場の場所を教えてくれた
彼も車を駐めていると聞いたので行ってみると黒塗りの「フェラーリ」が駐まっていた
彼はすでに階段を駆け上がって行ったが、金持ちで親切な人もいるんだと嬉しくなった



仁王門(重要文化財)



室町時代の建立と推定されている
軒の形式から見て、当初楼門として計画されたものの2階部分が造られなかったものと思われる



仁王門の奥の階段(文殊堂・本堂へ続く)






木造金剛力士立像(重要文化財)
作風、技法などから平安時代後期、11世紀頃の作と推定される
檜材の寄木造で、前後左右の4材を矧ぎ合わせて根幹部を形成し、これに両腕などに別材を矧いでいる






向かって右の阿形は高さ381 cm, 左の吽形は高さ375 cm
東大寺南大門の像、多禰寺山門の像に次ぐ大きさである






堂宇は3つのエリアに分かれていて自家用車で行くなら
①仁王門(P有)②文殊堂・本坊(P有)③本堂(徒歩)の順がいいと感じた
最後になるが親切に教えてくれた「フェラーリ」所有の男性に感謝したい

撮影 令和2年9月13日
コメント
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