訪問日 令和2年9月13日
廣澤山 天恩寺
朝から降り続いていた雨もあがり、気持ちが高揚してきたので、この日4カ所目となる天恩寺を目指した
駐車場に車を置き5分ほど歩くと石段が見えてきた
「総門」
伝説の「見返り大杉」を見たいと思い訪れた
長篠の戦いに出向く徳川家康が泊まった寺院として知られている
「案内板」
あまり下調べをせず訪れているため案内板を見て重文の建物があることを初めて知る
総門から中に入ると眼前に整備された境内が目に入る
「見返りの大杉(岡崎市指定天然記念物)」
ただの大きな杉だが歴史(伝説)を知ると価値あるものに見えるから不思議だ
天正3(1575)年に武田の軍が長篠城を包囲し、落城目前にして城主奥平信昌は鳥居強右衛門に命じ、岡崎の家康に事の急を報告した
家康は急ぎ出陣し、天恩寺に一泊した。翌日、大杉のところで延命地蔵に呼び止められ、振り返ると敵の刺客が弓を射る寸前だった
危うく難を逃れた家康は、この大杉を何回も見返りながら長篠に向かったという
このことから「見返りの大杉」と呼ばれるようになった
1602年には家康から片寄村79石余の寄進を受けた
「石橋」
風情のある石橋だ
写真を見ると周囲が石に囲まれている
「石垣」
無骨な感じが美しい石垣が境内を埋め尽くしている
石橋の先に重文の物殿が見える
「山門(薬医門)と仏殿(地蔵堂)」
山門(重要文化財)
山門は、南面して建てられた一間の薬医門であり、屋根は切妻造、杮葺
建立年代不詳だが、様式的には、室町時代後期と考えられる
扁額には山号「廣澤山」
「方丈」
仏殿(重要文化財)
仏殿は、桁行三間、梁間三間、入母屋造で、屋根は檜皮葺
内部は土間で中央後方に来迎柱を立て、禅宗様の須弥壇を置く
寺伝によると矢作川の戦いに敗れてこの地に逃れてきた足利尊氏が、本尊延命地蔵尊に戦勝祈願をし、勝利したら寺院を築くことを誓った
翌日の戦いで尊氏が勝利したが、約束を果たすことができず、遺言で託された室町幕府第3代将軍足利義満により、1362年、天恩寺が建立された
1382年には、足利義満誕生日祈祷のため寺領の寄進及び、足利義満自筆の山号・寺号が下付された
「鐘楼」
「お願い地蔵」
旅の無事と好天をお願いした
伝説の大杉を眺め、総門から駐車場に戻る
撮影 令和2年9月13日
廣澤山 天恩寺
朝から降り続いていた雨もあがり、気持ちが高揚してきたので、この日4カ所目となる天恩寺を目指した
駐車場に車を置き5分ほど歩くと石段が見えてきた
「総門」
伝説の「見返り大杉」を見たいと思い訪れた
長篠の戦いに出向く徳川家康が泊まった寺院として知られている
「案内板」
あまり下調べをせず訪れているため案内板を見て重文の建物があることを初めて知る
総門から中に入ると眼前に整備された境内が目に入る
「見返りの大杉(岡崎市指定天然記念物)」
ただの大きな杉だが歴史(伝説)を知ると価値あるものに見えるから不思議だ
天正3(1575)年に武田の軍が長篠城を包囲し、落城目前にして城主奥平信昌は鳥居強右衛門に命じ、岡崎の家康に事の急を報告した
家康は急ぎ出陣し、天恩寺に一泊した。翌日、大杉のところで延命地蔵に呼び止められ、振り返ると敵の刺客が弓を射る寸前だった
危うく難を逃れた家康は、この大杉を何回も見返りながら長篠に向かったという
このことから「見返りの大杉」と呼ばれるようになった
1602年には家康から片寄村79石余の寄進を受けた
「石橋」
風情のある石橋だ
写真を見ると周囲が石に囲まれている
「石垣」
無骨な感じが美しい石垣が境内を埋め尽くしている
石橋の先に重文の物殿が見える
「山門(薬医門)と仏殿(地蔵堂)」
山門(重要文化財)
山門は、南面して建てられた一間の薬医門であり、屋根は切妻造、杮葺
建立年代不詳だが、様式的には、室町時代後期と考えられる
扁額には山号「廣澤山」
「方丈」
仏殿(重要文化財)
仏殿は、桁行三間、梁間三間、入母屋造で、屋根は檜皮葺
内部は土間で中央後方に来迎柱を立て、禅宗様の須弥壇を置く
寺伝によると矢作川の戦いに敗れてこの地に逃れてきた足利尊氏が、本尊延命地蔵尊に戦勝祈願をし、勝利したら寺院を築くことを誓った
翌日の戦いで尊氏が勝利したが、約束を果たすことができず、遺言で託された室町幕府第3代将軍足利義満により、1362年、天恩寺が建立された
1382年には、足利義満誕生日祈祷のため寺領の寄進及び、足利義満自筆の山号・寺号が下付された
「鐘楼」
「お願い地蔵」
旅の無事と好天をお願いした
伝説の大杉を眺め、総門から駐車場に戻る
撮影 令和2年9月13日