中尊寺から道の駅「厳美渓」へ向かう途中、車中から偶然見つけたお堂である
遅い時間でもあり、翌日訪れようと軽い気持ちで考えていた
朝になると当然のように記憶から消え、黒石寺に行く途中にお堂の横を通り過ぎたときに思い出し、Uターンして駐車場に車を駐めた
史跡 達谷窟(たっこくのいわや)
正式名称は「達谷窟毘沙門堂」、Hpでは「達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺」となっている
壱の鳥居 石之鳥居
達谷村の三人の石工により、江戸時代末に建立された
二の鳥居 丹之鳥居
不動堂
智証大師円珍が達谷西光寺の姫待瀧の本尊として祀ったものを藤原基衡が再建した
桂材の一木彫の大師様不動の大像である
不動堂の近くにあった像。なぜ髑髏なのか…気になった
金堂
明治の廃仏毀釈で破棄されていたが、昭和62年に着手し、平成7年に完成した
桁行5間梁間6間の大堂。後世に技を伝えるため、昔ながらの工法を用いて作られた
本尊は薬師如来
三の鳥居 杉之鳥居
鐘楼
慶長20年(1615)の建立
かつては450kgの洪鐘を吊っていたが、戦時供出。現在のは昭和58年のもの。午前8時、正午、午後4時の三回、時を報せている
達谷窟毘沙門堂
延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた
東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁に建っている
地面の狛犬も珍しいが阿吽の呼吸でお堂を護っている
参拝は一方通行。こちらから入り反対側から出るようになっている
堂内の様子
岩面大佛
前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するために源義家が馬上より弓削をもって彫りつけたと伝えられる
高さ16.5m、顔の長さ3.6m、肩幅9.9m 全国で五指に入る大像
記録では「大日之尊體」(岩大日)、その後、岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている
大日如来ではなく「阿弥陀如来」としている
青空の下、磨崖仏を眺めるは楽しく、時間が過ぎるのをつい忘れてしまう
蝦蟇ケ池辨天堂
源頼朝も鎌倉への帰路に参拝しているという
ふらっと立ち寄ったのだが、印象に残る場所となった
撮影 平成28年5月25日
遅い時間でもあり、翌日訪れようと軽い気持ちで考えていた
朝になると当然のように記憶から消え、黒石寺に行く途中にお堂の横を通り過ぎたときに思い出し、Uターンして駐車場に車を駐めた
史跡 達谷窟(たっこくのいわや)
正式名称は「達谷窟毘沙門堂」、Hpでは「達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺」となっている
壱の鳥居 石之鳥居
達谷村の三人の石工により、江戸時代末に建立された
二の鳥居 丹之鳥居
不動堂
智証大師円珍が達谷西光寺の姫待瀧の本尊として祀ったものを藤原基衡が再建した
桂材の一木彫の大師様不動の大像である
不動堂の近くにあった像。なぜ髑髏なのか…気になった
金堂
明治の廃仏毀釈で破棄されていたが、昭和62年に着手し、平成7年に完成した
桁行5間梁間6間の大堂。後世に技を伝えるため、昔ながらの工法を用いて作られた
本尊は薬師如来
三の鳥居 杉之鳥居
鐘楼
慶長20年(1615)の建立
かつては450kgの洪鐘を吊っていたが、戦時供出。現在のは昭和58年のもの。午前8時、正午、午後4時の三回、時を報せている
達谷窟毘沙門堂
延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた
東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁に建っている
地面の狛犬も珍しいが阿吽の呼吸でお堂を護っている
参拝は一方通行。こちらから入り反対側から出るようになっている
堂内の様子
岩面大佛
前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するために源義家が馬上より弓削をもって彫りつけたと伝えられる
高さ16.5m、顔の長さ3.6m、肩幅9.9m 全国で五指に入る大像
記録では「大日之尊體」(岩大日)、その後、岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている
大日如来ではなく「阿弥陀如来」としている
青空の下、磨崖仏を眺めるは楽しく、時間が過ぎるのをつい忘れてしまう
蝦蟇ケ池辨天堂
源頼朝も鎌倉への帰路に参拝しているという
ふらっと立ち寄ったのだが、印象に残る場所となった
撮影 平成28年5月25日