今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

平戸城(長崎県平戸市岩の上町1458)

2023年08月08日 | 
訪問日 令和5年5月24日

平戸城(別名:亀岡城)
初めて訪れる場所は駐車場探しに苦労する
困っていると、地元の親切な女性が城に一番近い場所を教えてくれた



乾櫓(いぬいやぐら)
駐車場から少し歩いた場所に乾櫓が見えてくる



二の丸御殿を守護していたとされる乾櫓
平戸の乾の方角(北北西)にあたることから、乾櫓と呼ばれた



「日本最初 たばこ種子渡来之地」の石碑
慶長6年(1601年)に「たばこ」の種子がこの地に伝えられたという記録をもとに建てられた
*「たばこ」が日本へ伝わった正確な年代や状況については諸説あるらしい
 天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲とともに伝えたとする説
 慶長10年(1605年)前後に、ポルトガルやスペインなどの西欧諸国から渡来したとする説



案内板
平戸藩では家臣団の再編や領国支配の強化を進める上から、居城の拡充と城下町の整備が必要となっていた
そこで慶長4年(1599年)松浦鎮信(法印)が亀岡の地(日の岳)に新城の築城を開始
平戸城はこの年に着工し、12年以上の歳月をかけて完成した



地蔵坂櫓
二の丸北側に位置する櫓
乾櫓と北虎口門を結ぶ中間点にある



城壁に張り出して、側面から北虎口門を守ることを想定している
城壁の曲線部分が美しく印象に残っている



天守閣
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる
慶長18年(1613年)火災により大半を焼失した
自ら火を放ち城を破却したとも言われている
豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためともいわれている



元禄15年(1702年)松浦鎮信(隠居により改名)は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された
江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例であった
これは徳川家との姻戚関係と、東シナ海警備の必要性によるものといわれている



5代藩主松浦棟が山鹿流の築城術を用いて築城に着手
元禄17年(1704年)2月に着工、宝永4年(1707年)にほぼ完成した
天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用とした



城からの景色が美しい
遠くに見える朱色の「平戸大橋」を渡りやってきた
橋からの眺めは高所恐怖症ということも忘れるほどの絶景であった



北に位置する「見奏櫓」






平戸湾を往来する船



城よりもこの場所に佇み風景を愉しんでいる時間の方が長かった



見奏櫓(けんそうやぐら)
二の丸北部を守る見奏櫓は、「五段ハグチ」と呼ばれる急な崖の上にある
絶景を見ながら休憩できるスペースになっている



明治4年(1871年)廃藩置県後の廃城令により廃城となる
現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体された



昭和37年(1962年)模擬天守及び復興の見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建てられた
天守内は松浦党などの資料館になっている
現在の城跡は亀岡神社の境内や亀岡公園となっている



撮影 令和5年5月24日
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