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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

馬場都々古別神社(東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39)

2024年04月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)
陸奥国一宮ということで訪れた
江戸時代から、久慈川沿いに並んで鎮座する「八槻都々古別神社・近津神社(茨城県久慈郡大子町」と合わせて「近津三社」と呼ばれている
この馬場都々古別神社は、そのうちの上之宮にあたる

二の鳥居
先に訪れた「石都々古和気神社」、現在訪れている「馬場都々古別神社」、次に訪れる「八槻都々古別神社」
いずれも陸奥国一宮であり、社号も似ている






参道の正面に随神門らしき建物が見えてくる



手水舎



社務所



随神門



額には「陸奥國一宮」



随神像






更に先に進むと社殿が見えてくる



参道や社殿は高い木に囲まれている



始めて訪れる神社なので周辺の社などを確認しながら参道を進む



寅卯神社






三の鳥居
社殿前の鳥居
周辺は塀によって囲まれている



甲山天満宮



神明社



拝殿
その昔、日本武尊が蝦夷征伐に赴く際、現在の表郷・建鉾山に自らの鉾を祀ったことが始まり
大同2年(807年・平安時代) 坂上田村麻呂によって棚倉に移された



寛永元年(1624年・江戸時代)棚倉城築城に際し、白河藩主・丹羽長重によって御神体は現在の地に遷宮された
白河初代藩主の丹羽長重を始め、足利義満や豊臣秀吉、徳川水戸家など多くの武将が参拝に訪れ、武具や刀剣なども奉納された



扁額には社号の「都々古和氣神社」と書いてあると思うのだが……



これが現実なのか(賽銭箱のメモ)
<一部抜粋>全体に過疎化・高齢化・少子化・人員不足・人口減・若手不足・猛暑・酷暑・異常気象・経済異変・収入不安
「手入れ不調、ご理解のほど お許しを」と結んでいる



この神社は国の重要文化財を有し、陸奥国一宮である
歴史的背景はすばらしいが、経済的には厳しい現実があるということをメモから知らされた




本殿(重要文化財)
本殿は、文禄3年(1594年)の佐竹義宣による再建
もとは棚倉城の地にあったが,寛永2年(1625年)に現在地へ移された






祭神:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
   日本武尊(やまとたけるのみこと)
本殿付近にはロープが張られ「まむし注意」と書かれていたため先に進むことができなかった



撮影 令和5年10月13日
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石都々古和気神社(福島県石川郡石川町下泉269)

2024年04月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)

社号標
陸奥国一宮ということで訪れた
駐車場の傍に社号標と社務所はあるが社殿の姿が見えない(嫌な予感がする)



狛犬(石川町指定文化財)
「飛翔獅子」と呼ばれる構図の作品で「高遠石工」の技術を受け継いだ作品
高遠石工とは、高遠藩領内(現在の長野県伊那市)出身の石材加工の職人集団









昭和の時代の作品であるが、高遠藩の石工文化の伝承による貴重な作品



「境内図」
神社まで250mはいいが、(徒歩9分)っていうのは……



嫌な予感というものは高確率で当たるもので、目の前には先の見えない階段が待っていた



胡桃下意成神社(くるみしたいなりじんじゃ)
立派な案内板がある
ここで神に祈ると近いうちに願い事が叶うという
「いなり」といえば、稲荷・稲成だが「意成」なら確かに願いが叶いそうだ



看板の割には小さな社だった



鳥居
階段を上りきった所に鳥居がある
ここかと思ったら違った



更に先が見えない参道が続く



木の根径(きのねみち)
「楽しく歩いて」書いてある



独りで笑顔で歩くのも変だし、鼻歌は呼吸が苦しくなる、スキップでもしようものなら捻挫の危険性もある



天狗岩
ここから大きな岩が続く



古くから山岳信仰の場として山そのもの、点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、土着の人々に崇敬されていたという



まだまだ、階段が続く



亀岩
ただただ呼吸が苦しく、カメラを持つ手が震えてピントが合わない



あまりにも巨石すぎてどこが亀の頭で甲羅がどこなのか分からない



離れた場所から見ると亀の形だと想像できる



石門(鳥居)
私自身信仰心もなく、ましてや山岳信仰の知識もない
この石門から向こうが聖域になるということか



鳥居と同じように一礼して入った



神籬岩(ひもろぎいわ)
恥ずかしながら「神籬」という漢字が読めず、その意味も分からなかった
古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた



古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った
その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、古くはその場所が「神籬」と呼ばれた



勾玉岩
全国的にも数少ない祭祀遺跡の跡地として、考古学的にも大変重要な遺跡といわれている



多くの「磐境(いわさか)」が山々に点在しているが、更には三種の神器と言われる「剣、玉(勾玉)、鏡」もある






天龍桜



社殿がみえているので、これが最後の階段となる



鳥居
食習慣と運動不足による肥満、肥満による足腰への負担等で最後の一歩が出ない






鳥居の額には「石川郡総鎮守 石都々古和気神社」



拝殿
社殿は八幡山の頂上にある
創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていた



「奉納額」



「由緒」
永承6年(1051年)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、代官として石川の地を賜った
有光は康平6年(1063年)にこの地に移って名を石川有光とし、八幡山山頂の当社東側に三芦城(石川城)を築城した
治暦2年(1066年)、源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊(八幡神・大国主命)を勧請して石都々古和気神社に合祀した







本殿
主祭神:味鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
    大国主命(おおくにぬしのみこと)
    誉田別命(ほんだわけのみこと)の三柱



近寄って観ると本殿だと思っていた建物が覆堂であり、その中に本堂があった



祖霊社



多賀神社



諏訪神社



石造りの小さな社



剣石
先述した「三種の神器」の一つ






石造五重塔






五重塔の横にある龍神像



御神木
樹齢500年の「高野槇」






額殿
社殿の他に大きな建物はここだけになる



額には「額殿」とある



名前の通りだと奉納額が置かれているはずだ



周辺を散策していたら可愛い石仏に出逢った



山岳信仰の聖地ということも知らずに山頂にある社殿まできた
途中の磐座や磐境も大きな岩程度の認識でいた



境内図によるとこの鳥居の真下に狛犬の場所がある



まちなか駐車場に到着
近くには高校野球で甲子園に出場した「学法石川」がある



撮影 令和5年10月13日
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文殊院 清龍寺(福島県大沼郡会津美里町字文殊西3611)

2024年04月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

文殊院 清龍寺
清龍寺はもとは伊佐須美神社境内だった
寛文年間(1661~73)に、社地から分離し、伊佐須美神社奥の院別当を司っていた

寺号標
寺号標には「文殊院」
文殊院清龍寺の文殊菩薩は「筆の文殊」として信仰を集めている
「紙の文殊」(天の橋立て)、「硯墨の文殊」(大和桜井)と並び日本三文殊に数えられている



仁王門



仁王像
東北地方にはユニークな仁王像が多いと感じている
縄と藁を用いている像は珍しい



過去に撮ったなかでも記憶に残っている像の一つだ









文殊堂
清龍寺は暦応2年(1339年年、円済法師がこの地に立ち、独鈷等(仏具の一種)を投げたところ光を放ったので、土を盛り、堂を建てたことから始まる
天海大僧正はこのお堂に祈願して授かったといわれている



「天海大僧正とは」
戦国時代の末期から江戸初期にかけて活躍した天台宗の名僧
現在の会津美里町高田の出身で、幼い頃に天台宗の龍興寺で得度し、各地で学びを深めた
会津を治めた葦名氏に始まり、武田信玄、徳川家康・秀忠・家光に仕えた
特に徳川三代には政治的、宗教的な支えになった人物
焼失した比叡山の復興再建や日光東照宮の造営などに尽力した



三大文殊の一つに数えられている
①奈良県桜井市②京都府宮津市は鉄板であるが、残りの一枠には諸説ある
ここを訪れる2・3日前にも三大文殊の寺を巡り秘仏を拝観してきた



扁額には「獅子吼」
私の出身大学の寮歌の一節にこの言葉が出てくる
仏教用語で、百獣の王である獅子が吠えるがごとく法を説く様子を表す言葉である



隙間にレンズ入れ堂内の様子を撮る
本尊:文殊菩薩
毎年2月25日、1年に1度だけ御開帳にあわせ「文殊大祭」が開催される



天海大僧正の死後、清龍寺の文殊菩薩は大僧正誕生に関わる霊験あらたかな文殊菩薩像として江戸上野寛永寺に移された
寛永寺からは、公辨法親王が開眼された文殊菩薩を、幕府から三つ葉御紋葵の御紋を拝領した
天明の頃、文殊堂は火災により灰塵に帰し、その文殊菩薩も焼失
その後再び寛永寺より文殊菩薩像が贈られ、現在に至っている



文殊堂の彫刻






清龍寺の文殊菩薩は「筆の文殊」として信仰を集め、書道上達の霊験があらたかで、堂内には、4本の大筆が奉納されている






智鏡塚(会津美里町指定文化財)
布教に尽力した智鏡上人を祀った塚



天文22年(1553年)智鏡上人は高田村に疫病が流行したとき、穴を掘り棺に入って生き埋めとなった
棺の中から鐘を鳴らしながら念仏を唱え疫病から人々を救おうとした
その音もついに絶え、捨身往生を遂げた



村人は塚に「五輪塔」を建て、供養したと伝えられている
この五輪塔が人の顔に見えるのは私だけか



芭蕉翁袖塚碑(会津美里町指定文化財)
野面石に「芭蕉翁袖塚」と刻まれている



松尾芭蕉が元禄2年(1689年)奥の細道への旅に出立するとき、右袖は筆のすさびに邪魔になるとたち切り、弟子の堀伊賀之助に与えた
それをもらい受けた高田村の弟子は伊佐須美神社の薄墨桜の下に埋め碑を建立した
その後、現在地に移された






撮影 令和5年10月13日
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伊佐須美神社(福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377)

2024年04月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)
岩代国一之宮(福島県西半部)会津総鎮守
2000年を越える歴史を誇り、「会津」地名発祥の由来を伝える神社

鳥居



末社 菅原神社



祭神:菅原道真
学問成就・出世開運の守護神



参道の先に楼門が見える



手水舎



末社 道主命神社(みちぬしのみことじんじゃ)
祭神:道主命
交通安全の祈願所



楼門
楼門は平成元年(1989年)の造営、高さは約14m



神像






獅子像







仮社殿
主要社殿は平成20年(2008年)の火災で焼失したため、現在は拝殿跡に建てられた仮社殿をして祀られている
火災後、新社殿として、古代の出雲大社を連想させる高さ32㍍の「天空にそびえ立つ神殿」を計画していたが頓挫



拝殿内部
数年前に一度訪れたことがあるが、本格的な再建が進んでいないようだ



拝殿前に供えられた花がやけに目に入ってくる



祭神:伊佐須美大神(下記 四柱を総称)
   伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)
   大毘古命(おおひこのみこと)
   建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)



飛龍の藤< 別名「瑞木の藤」>(福島県指定天然記念物)
天に舞い昇る龍の姿になぞらえられる力強さが溢れる






「厄割石」



「厄割玉」



天海大僧正御手植の檜別名「南光檜」
何も知らないとただの背の高い木……



この札があると、この木に対する見方が変わってくる
現在の会津美里町に生まれたとされる
徳川家康より三代に亘り側近として仕え、没後に朝廷より「慈眼大師」の諡名を賜る



推定樹齢:450年(伝承)幹回り約5m
天正6年(1571年)に帰省した天海大僧正が、母親の病気回復を祈願して植えられたと伝わる



縁結びの紅葉
二本の幹が一本の幹になる連理樹
縁結びの御神木として信仰されている






撮影 令和5年10月13日
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新宮熊野神社(福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野2258)

2024年04月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

新宮熊野神社
平安時代後期の永承6年(1051年)、前九年合戦の折り源頼義、義家父子が紀州にある熊野権現に武運を祈願し見事勝利した
神意に感謝し、天喜3年(1055年)熊野堂村(福島県会津若松市)に分霊を勧請したのが始まり

鳥居



案内板



額には社号の「熊野神社」
鳥居の注連縄としてはかなり大きい



神社で拝観料:大人300円は珍しいが宝物殿入館料と思えば納得できる
初めて訪れる場所で周囲を確認しながら参道を進む



手水舎



御神木「大イチョウ」(喜多方市指定天然記念物)
樹高37m 樹齢800年以上
晩秋になると落ち葉が黄色い絨毯のように境内を美しく彩る
11月中旬~下旬の見頃の時期にはライトアップが行われ、大イチョウが幻想的な雰囲気を醸し出す



狛犬






熊野神社長床(重要文化財)
「大イチョウ」と巨大な長床



寄棟造、茅葺、正面9間、側面4間、建立年代は不明
形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には「拝殿」として建立されたと思われる



案内板



本殿はこの先の高い場所にある
慶長16年(1611年)に大地震で倒壊し、同19年(1614年)に旧材を用いて再建



昭和46年(1971年)~49年(1974年)にかけて解体修理復元工事が行われた
長床の平面は、間口27m・奥行12mの長方形
直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない



大きすぎて画角に収まらず、横に移動した









鐘楼
古くから神仏習合し別当寺院である新宮寺や奥之院である神宮寺が祭祀を司っていた
明治時代初頭に発令された「神仏分離令」により形式的には仏教色が一掃され、県社に列した



境内には文殊堂や鐘楼、多数の仏像が残されているなど神仏習合の名残が随所に見られる



梵鐘(福島県指定文化財)






長床の横を通り本殿を目指す



熊野神社本殿(福島県指定文化財)
出羽国で発生した後三年合戦の際、応徳2年(1085年)に源義家が再び会津まで進軍
熊野本宮社を耶麻郡慶徳村岩沢、那智熊野社を耶麻郡熱塩加納村宇津野)、新宮熊野社を耶麻郡慶徳村新宮にそれぞれ祀るように命じた



その後、当社の地に熊野本宮社と那智熊野社が合祀された
最盛期には300を越える末社があり神職には100余人が置かれ奥州の熊野と呼ばれていた



寛永20年(1643年)に保科正之が領主(会津藩主)となると崇敬社となり広く信仰された
保科正之と水戸光圀(水戸藩)が明治の神仏分離を江戸時代にすでに始めていた



本殿は熊野三山を模した配置が継承されている
中央には当社の本殿である新宮証誠殿、向かって左側には末社である那智山飛龍権現の本殿、右側には末社である本宮十二社権現の本殿が配されている



本社新宮証誠殿



額には「熊野新宮」
主祭神:家都御子神(けつみこのかみ)






末社 那智山飛瀧権現



額には「熊野那智」
祭神:熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)



末社 本宮十二社権現



額には「熊野本宮」
祭神:熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)



本殿の下には長床









宝物殿



宝物殿内は写真撮影が認められている



中央に「不動明王」向かって左に「制多迦童子」右は「矜羯羅童子」



「不動明王」



「制多迦童子」



「大黒天」



木造相撲力士像(喜多方市指定文化財)






鰐口(福島県指定文化財)



熊野山牛玉宝印版木(福島県指定文化財)



木造如意輪観音坐像(喜多方市指定文化財)






木造虚空蔵菩薩坐像(喜多方市指定文化財)






木造薬師如来坐像(喜多方市指定文化財)






銅造阿弥陀如来立像(喜多方市指定文化財)



「厨子入 木造弁財天・大黒天・毘沙門天像」



仏像を撮る機会に恵まれた
魅力的な「木造文殊菩薩騎獅像」は修復作業中だった






撮影 令和5年10月12日
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叶山 三宝院 願成寺(福島県喜多方市上三宮町上三宮字籬山833)

2024年03月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

叶山 三宝院 願成寺
浄土宗の寺院
嘉禄3年(1227年)法然上人の高弟 隆寛律師の開山、開基はその弟子 實成房上人

表門



願成寺縁起



山門(福島県指定文化財)
元禄11年(1698年)に竣工した楼門造りで、禅宗様と和様を混ぜた建築



扁額には山号の「叶山」






鐘楼






鐘楼から本堂を眺める



本堂(福島県指定文化財)



慶長16年(1611年)慶長三陸地震による震災で現在の場所に移転
会津藩主 初代 保科正之、正経、正容(正信)三代を通じて大施主となったもの



時代が流れ
明治初年(1868年)以降、廃佛のことあって寺勢衰え、無住の時代もあった
昭和の時代になり、63世映譽上人は、大戦後の混乱の中で幼児教育園を興し、寺域の整備につとめた
本堂、庫裡及び大佛殿の屋根大修理さらに三門、鐘楼の銅板ふき替え、新阿弥陀堂を建立した






扁額には社号の「願成寺」



本尊:阿弥陀如来像






手水舎



旧阿弥陀堂<千佛堂>(福島県指定文化財)






階段横に千佛堂の札がある



扁額には「阿弥陀堂」



千葉の梅沢徳次郎氏奉納による十三佛が正面に安置されている






内陣に描かれる飛天女






大仏殿



木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(重要文化財)
通称:会津大仏
左脇侍(向かって右)は観音菩薩、右脇侍は勢至菩薩
両脇侍は大和座りで、この形式は、京都三千院の阿弥陀三尊像と同じであり、東北地方では珍しい



鎌倉時代の作
寄木造り
阿弥陀如来像の像高は2.41m



「来迎印」を示し、千仏舟形光背を負う



「観音菩薩」
「大和座り」とは、両膝を地面につけて座る形で、正座に近い
両足を揃えて座るが、やや前傾姿勢で腰を浮かせている
三千院及び願成寺の観音、勢至菩薩がこの座り方である



「勢至菩薩」
かなり前になるが「三千院」を最初に訪れた時に
タクシーの運転手から「お迎え」の仏像だから手を合わせるなと助言されたことがある



願成寺庭園
願成寺は、「花の寺」としても親しまれている
桜、あやめ、シャガ、さつき、紫陽花等の四季折々の花々で彩られる



五重塔



パワースポットの祠らしい



池は「心字池」になっている












撮影 令和5年10月12日
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長命山 幸徳院 笹野寺<笹野観音堂>(山形県米沢市笹野本町5686-5)

2024年03月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

長命山 幸徳院 笹野寺<笹野観音堂>
真言宗豊山派の寺院
坂上田村麿呂が国家鎮護を願って観音菩薩を勧請
弘仁元年(810年)、現在の地に観音堂が落成し観音菩薩と羽黒権現を祀り、会津の高僧「徳一上人」により入仏供養が行われた



仁王門
天保11年(1840年)に民家より出火して仁王門が焼失
明治6年(1873年)、米沢の豪商が南原の「常慶院」より金10両で買い受け移築して再建






健康や足が丈夫になるようにと願って、下駄やわらじなどの履き物が奉納されている



仁王像
仁王像の前には格子か柵状の木材、または金網などにより像が護られている
ここの仁王像は、格子の奥にさらに金網があり二重に護られている









境内一面に植えられたあじさいは七月中 咲き誇るという
紫陽花の名所として別名「あじさい寺」と呼ばれている






千体地蔵堂
嘉永3年(1850年)に「長厳寺」より釈迦堂が移築、焼失より28年後に再建された



中風除けの地蔵として信仰され、中風除けの箸を授与している
最近「中風」という言葉は使われなくなった
現在では脳血管障害の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉として用いられている



本尊は「いびた地蔵」
「いびた」とは、米沢では長患いして寝込むことをいう
本尊の周囲には土人形の「相良人形」で造られた地蔵が祀られている



境内の石仏






芭蕉句碑①
「観音のいらか見やりつ花の雲」



芭蕉句碑②
「物言えば唇寒し秋の風」



漱口場



案内板



観音堂(米沢市指定文化財)
征夷大将軍の坂上田村磨呂が千手千眼観世音菩薩を安置
旅の僧が羽黒大権現を祀って、笹野山の山上に大悲閣と羽黒堂があったと伝えられている



歴代住職の第一世に会津の高僧「徳一(とくいつ)上人」の名がある
法相宗の僧で、最澄との間で交わされた「三一権実諍論」や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどでも知られている



天保4年(1833年)に火災に遭い焼失、現在の堂は同14年(1843年)に再建されたもの
大きな茅葺の屋根、精巧な彫刻などが特徴の建物



竜や鳳凰の彫物は、庄内地方の彫物師後藤藤吉・政吉の作















扁額の文字は「施無畏」と読めるが自信はない
観世音菩薩の異称



奉納額


















内部の様子



本尊:千手千眼観世音菩薩















弘法大師堂
昭和59年(1984年)弘法大師の生誕1200年を記念して建立









みちびき観音






三重塔
宝暦7年(1757年)の建立 高さ5m



延命地蔵菩薩
天保3年(1832年)の建立



基礎及び台座は米沢の赤崩石、身体は上山の川流石で造られ、総高さ約5mの県南一の石像






再び観音堂



茅葺屋根は貴重で美しい






撮影 令和5年10月12日
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松心山 善光寺<堂森善光寺>(山形県米沢市万世町堂森山下375)

2024年03月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

松心山 善光寺(堂森善光寺)
道の駅「米沢」の屋内にある大きな看板である
前田慶次は趣味だったパチンコ台「花の慶次」で随分愉しませてもらった
その後、NHKの歴史ドラマでも扱われ、毎週、視聴していた



道の駅近くに「天下の傾奇者(かぶきもの)」と称された前田慶次の供養塔が建立されているということを知った
上杉家には謙信を筆頭に直江兼続など魅力的な武将がいるが前田慶次もその一人だ



駐車場に車を駐め、周辺を散策する



案内板には寺の歴史が記されている
真言宗豊山派の寺院
伝承によると善光寺阿弥陀堂の別当として大同2年(807年)に開山されたとある



仁王門



仁王像
仁王像の前には細かな金網があり鳥類などの侵入を防いでいる
写真を撮る側としてはこれが難敵でいつも苦労している












手水鉢



仁王門の正面に見えるのが阿弥陀堂



阿弥陀堂へ向かう短い参道周辺の石仏





















十王堂



堂内の様子



扁額の文字が薄くて読み取ることができない






阿弥陀堂
建久3年(1192年)に長田庄司忠次の妹益王姫が中興、中世に入ると地頭職にあたる長井氏が庇護
現在の阿弥陀堂は、寛延3年(1750年)に建立された
入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、平入、桁行3間、梁間2間、正面3間軒唐破風向拝付









本尊:(善光寺式)阿弥陀三尊
   木造阿弥陀如来立像<見返り阿弥陀如来>(山形県指定文化財)像高50.8㎝



伝承によると
長田庄司忠次が源頼朝に敗れ、妹である益王姫は守護神である阿弥陀如来像を守る為、像を担いで出羽国まで逃れたが、頼朝軍に追いつかれた
姫は死を覚悟したが、阿弥陀如来像が急に後ろを振り返り敵軍を睨み付けると、兵は皆卒倒した事から姫は無事に危機を脱する事が出来た



姫は堂森に辿り着くと尼となり草庵を設けて後ろを向いたままの阿弥陀如来像を安置
その故事を聞いた人々は「見返り阿弥陀如来」として信仰の対象となった



前田慶次供養塔
堂森は前田利家の甥で「天下の傾奇者(かぶきもの)」と称された前田慶次の別邸「無苦庵」があった
実父は織田信長の重臣・滝川一益の一族だったとされるが、確証はない
上杉景勝や直江兼続との関係は深く、関ヶ原の戦いの後は上杉軍とともに米沢に移り、1612年に没したとされている



前田慶次供養塔碑文



前田慶次は奇怪な行動が多かったといわれている
「大ふへん者」と大書きされた旗を掲げて上杉の陣に参加したという



周囲の武士たちが「“大武辺者”とはずいぶん調子に乗っているじゃないか」と言うと
慶次は「そうじゃない、“大不便者”という意味だ!」と説明、人々をからかったという



隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」などによって、慶次のイメージが形成された部分が大きいという
これを機に読んでみたいと思った






供養塔周辺の石仏






光明殿



光明殿前の石仏









本堂
明治28年(1895年)の再建



鐘楼






撮影 令和5年10月12日
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松高山 大聖寺<亀岡文殊>(山形県東置賜郡高畠町亀岡41)

2024年03月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月11日

松高山 大聖寺<通称:亀岡文殊>
真言宗智山派の寺院
「亀岡文殊」は、奈良県桜井市の「安倍文殊院」、京都府宮津市の「切戸の文殊」とともに、日本三文殊の一つに数えられる



関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢30万石の大名として会津から米沢へ移転した
慶長7年(1602年)上杉家執政「直江兼続」が主催者として亀岡文殊堂で詩歌の会が開催された
直江兼続の漢詩をはじめ前田慶次、大国実頼ら有名な武将の詩歌「亀岡文殊堂奉納詩歌百首(高畠町指定文化財)」が残されている



石中に彫られた石仏



独国和尚
宮城県女川町出身の僧
亀岡文殊で修業を積み、女川町や福島市、いわき市を拠点に布教活動をしていた



この石像は、独国和尚を慕う高畠の人々の寄進






筏舟(がっしゅう)和尚
越後・草水観音寺の住職で、ここから続く十六羅漢は自身の顔に似せ造立したといわれている






十六羅漢①
写真を整理し石像の数を数えてみると17体あった
この十六羅漢①と最後の石像が曖昧になっている



手水舎






緩やかな上り坂の参道が続く
羅漢像はこの参道の左右に点在する



十六羅漢②



十六羅漢③



十六羅漢④



十六羅漢⑤



十六羅漢⑥



十六羅漢⑦



十六羅漢⑧



十六羅漢⑨



松尾芭蕉句碑
「春の夜は 桜に明けて しまひけり」
春の夜に桜を見つめていたら、いつの間にか夜が明けてしまった






鐘楼堂
41,000人余の衆生の浄財喜捨を受け享保15年(1730年)に鐘楼堂と観音堂を「待定法師」が建立
待定法師は、苦行する念仏者として知られている
金づちで手指を打ち砕いて火を灯す「指頭供養」など、肉体的な苦行を重ねたという



享保16年7月17日、この地に47歳で入定した「待定法師」の偉業を伝えるお堂
翌年より命日に法師の冥福を祈り供養のため念仏踊りが奉納されている



鐘楼堂前に羅漢像が集まっている



十六羅漢⑩



十六羅漢⑪



十六羅漢⑫⑬



十六羅漢⑭⑮⑯
足元が悪く正面から撮ることができない



安全な場所から後ろ姿を撮る



鐘楼堂前の参道の向こう側にあったため十六羅漢なのか迷った



大師堂(厄除弘法大師)



観音堂(別名:縁結び観音)
享保15年(1730年)に鐘楼堂と同じく観音堂を「待定法師」が建立






堂内の様子



本尊:阿弥陀如来
脇侍:西国三十三観音



奉納額









一木造りの「邪鬼」






観音堂から鐘楼を眺める



亀岡文殊本堂
本尊の文殊菩薩は、宣化天皇の2年(約1480余年前)、震旦国(中国)五台山より伝来、伊勢国神路山に安置されていた
この文殊菩薩を、大同2年(807年)徳一上人(奈良東大寺住持)が勅命でここに移した



本尊:文殊菩薩
本堂の柱に「御開帳順路→」があり、それに従って進んだ
撮影禁止でその姿は記憶にないが、後に秘仏で12年に一度の御開帳だと知った



狛犬












縁起



駐車場に戻る



目線と同じ高さだと同じ鐘楼堂でも違って見える



こちらは手水舎



高い木に囲まれた参道



大聖寺と書かれていたが、この時は亀岡文殊と結びついていなかった



ここに来て初めて「秘仏御開帳」を知った



撮影 令和5年10月11日
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熊野大社(山形県南陽市宮内3476-1)

2024年03月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月11日

熊野大社
熊野大社は、大同元年( 806 年)平城天皇の勅命により再建されたと伝えられている
実際にはそれより前の国分寺建立(741年)のときに創建されたものと推定されている

手水舎
熊野大社境内とその周辺で「南陽菊まつり」が開催されていたため、手水舎周辺は作品で飾られていた
手水鉢にも菊が浮かんでいて美しい



お御坂 (おみさか)
46段の石段
馬に乗り参拝する方がいたことから通常の石段よりも大きな造りとなっている



狛犬1






幸神社(さいわいじんじゃ)






大社神社 (おおやしろじんじゃ)



湯殿山神社(右)、月山神社(左)



狛犬2
顔面部分が欠損している






鐘楼



洪鐘(南陽市指定文化財)
寛永3年(1626年)阿部右馬助から寄進された
第二次世界大戦中に金属の回収を命じられたが、文化的な価値から免除された



おみくじ掛け(花結び)



階段を上がると黄金色に輝いた拝殿が視界に入ってくる



風車も数が増えると美しい



参拝者の多くはこの場所で写真を撮っていた



拝殿(山形県指定文化財)
拝殿は山形県内最古の茅葺屋根建築



平成18年の屋根修復事業において天明7年(1787年)の墨書が発見され、この年以前の建築であることが判明した



拝殿の彫刻









扁額には社号の「熊野大社」



拝殿内部はガラスが反射して確認することができなかった



五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)
明治元年(1868年)3月14日に明治天皇が京都御所の紫宸殿で神々に誓約する形式で示した、明治政府の基本方針



唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を萱でふくのは山形県独自の建築様式



神楽殿
菊まつりの作品が展示されている



第111回 南陽菊まつりの作品
今、出発の刻(たびだちのとき)

今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅<名所旧跡を訪ねる>【今、出発の刻(たびだちのとき)】

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八幡神社(はちまんじんじゃ)



愛宕神社(左)、保呂羽神社(中央)、羽黒神社(右)



菅原神社



この場所にも風車のトンネンルが設置されている
足もとからはドライアイスと思われる白い煙が何かを演出している



案内によると奥に行けと



稲荷神社






千手堂



本殿裏(南陽市指定文化財)
祭神:伊弉冉命(いざなみのみこと)



周辺の人が見上げているのは、この鳳凰の彫刻ではないらしい
「うさぎ」とつぶやきながら何かを探している様子だ



「三羽のうさぎ」の彫刻を見つけると願いが叶い幸せになると書かれている
「三匹」じゃないのかと調べて見ると、正式には「一羽、二羽」と数えるようだ



願いは叶わないと頭で考えながら、目はうさぎを探していた
一羽も発見できず、その場を離れた



風車の場所に戻る
この通路が、拝殿と本殿・二宮・三宮を繋ぐ場所になっている
熊野神社の総本社である熊野三山では家津御子大神(素盞嗚尊)・熊野夫須美大神(伊弉冉命)・熊野速玉大神(伊弉諾尊)を祭神としている
全国の熊野神社もこの三神を祀っている



三宮神社(南陽市指定文化財)
祭神:素盞鳴尊(すさのおのみこと)



二宮神社(南陽市指定文化財)
祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)



皇大神社



厳島神社



和光神社



招魂社






拝殿に戻る



南陽市の熊野神社は「日本三大熊野」の一つに数えられている
和歌山県の熊野三山(速玉、本宮、那智)は二度訪れているが、碓氷峠の熊野はまだ訪れていない
旅の新たな目標が増えた









撮影 令和5年10月11日
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守國山 吉祥院(山形県山形市大字千手堂509)

2024年03月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月11日

守國山(しゅこくざん) 吉祥院(きちじょういん)
前夜は土砂降りの中、道の駅「寒河江」に到着、朝まで雨が降り続いていた
近くの慈恩寺は何度も訪れているので、この日は一度も訪れたことのない場所を選んでみた



重要文化財の「木造千手観世音菩薩立像」を拝観したいと思い訪れた
石柱には「國寶 千手観世音菩薩」とある



境内では落ち葉などの清掃作業をしている男女の老人がいた
地域の檀家さんと思い「お疲れさまです」と挨拶をしたが、後に住職だということがわかった



カメラを縦にして少し離れてやっと高い木が画角に収まった



参道の正面に観音堂
創建から1280有余年の歴史を刻む天台宗寺院である



延命曼荼羅塔復元建立趣旨



門の額には「抜苦殿」



五輪塔



抜苦(ばっく)」は、仏教の用語で、衆生の苦しみを除くことを意味する












観音堂(山形市指定文化財)
奈良時代の天平9年(737年)出羽国にひどい悪病が流行蔓延し万民塗炭の苦しみに喘いでいた
聖武天皇は「行基」を遣わしてその悪役の消除と庶民の救済にあたらせた折、開山したと伝えられている



案内板



延文5年(1360年)斯波兼頼が本堂を再建
天文12年(1542年)最上義守によって寺が再建されたという



本堂右側の額には「観音堂」



中央の額には「出羽一佛」



左側の額には「抜苦殿」



この後に秘仏の「木造観世音菩薩立像(重要文化財)」を拝観した際に、「出羽一佛」の「出」の字について説明を受けた
山が二つで「出」という字が成り立つが、山と山が離れていて出羽(秋田県・山形県)の2つの山を……(後の記憶がない)



堂内に入ると外観の様子とは一変する



奉納額が所狭しと掲げられている



このような額は初めて観た(拡大)
明治時代で宮川鐵太郎の銘がある









「千手観世音御霊験縁起」とある



これまで、たくさんの奉納額を観てきたが、記憶に残るものとなった
感性も理解力も乏しい私にも、この絵は理解できる(ような気がする)



観音堂中央には「千手観世音菩薩」



私が拝観を希望していたのは重要文化財の木造の方で堂内に拝観できるとの記載があった



「不動明王」



本堂の天井を飾る巨大な画



若い頃は何も感じなかったと思われるこのような画も、年齢を増すと真剣に観てしまう



現世でも十分満足しているが、来世もこうだと楽しいだろうなと思う



この後、奥の院宮殿にて秘仏の木造観世音菩薩立像を拝観(有料)する
寺巡りをしても住職とお話しする機会などほとんどなく、貴重な時間を過ごすことができた

(下記 吉祥院HPにて宮殿内仏像写真等を公開)
秘仏参拝/一乗院 | 山形市にある天台宗のお寺・吉祥院

千手稲荷大明神



鐘楼



参道の曼珠沙華



撮影 令和5年10月11日
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大崎八幡宮(宮城県仙台市青葉区八幡四丁目6番1号)

2024年03月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月10日

大崎八幡宮
国宝の社殿があるということで訪れた
カーナビが案内した国道46号線沿いには鳥居は見えたが車の入る場所がない
駐車場の検索してみると社殿の裏側にあることが分かった

北参道鳥居
御鎮座400年奉祝事業の一環として平成17年に建造された 
木材には樹齢250~300年の青森ヒバ、袴石には茨城県産の御影石を使用



駐車場からは緩やかな坂の北参道を進んで行くことになる



長床(重要文化財)
長床(ながとこ)とは、神社の本殿の前方の細長い建物
拝殿のみならず、修験者の宿泊、参籠場所としても使われることがあった



額には社号の「大崎八幡宮」



拝殿・石の間・本殿(国宝)
東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である「宇佐八幡宮」を現在の岩手県水沢市に勧請、「鎮守府八幡宮」を創祀
その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に「大崎八幡宮」と呼ばれた



大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷す
仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀った






社殿は、伊達政宗の命により豊臣家召抱えの、当世随一の巨匠を招き、慶長9年(1604年)より12年にかけ造営された



拝殿正面
祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后



拝殿の彫刻















神輿殿内部



太元社



諏訪社



鹿島社



北辰社



龍神社と稲荷社






表参道に移動する(正面には長床)



石絵馬
大正14年(1925年)に神馬の銅像を奉納されたが、先の大戦で金属供出により撤去された



昭和33年、当時皇太子殿下(現上皇陛下)御成婚記念事業として神馬の姿を刻した建立
この「石絵馬」と呼ばれた碑は永く長床前にあったが、平成11年に移設された



表参道の階段を下まで下りる

一之鳥居
鳥居前の国道46号線は交通量が激しく鳥居は後ろ姿のみ



二之鳥居(宮城県指定文化財)






二之鳥居から一の鳥居を眺める



社号標
社号標には「大崎八幡神社」
歴代藩主の篤い尊崇を受け、明治以降は「大崎八幡神社」と称していた
遷座四百年を間近に控えその歴史的経緯を考慮し、平成9年6月、社名を「大崎八幡宮」に復した



大石段(仙台市登録有形文化財)









石燈籠
石燈籠だと思うが形が面白い



三之鳥居



狛犬1









額の「八幡宮」は伊達吉村の揮毫(享保3年)



表参道の提灯が灯った時のことを想像しながら歩く



正面に見えるのが長床



金刀比羅社



殉国碑



狛犬2






長床前から駐車場に戻る



撮影 令和5年10月10日
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鹽竈神社・志波彦神社(宮城県塩竈市一森山1番1号)

2024年03月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月10日

陸奥国一宮 鹽竈神社(しおがまじんじゃ)
鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社
正式名称は「志波彦神社・鹽竈神社」

鳥居(重要文化財)



初めて訪れる場所なのでこの境内図を頭に入れる
普通は表参道を目指すのであるが事情があって止めた



額には寺号の「鹽竈神社」
「しおがま」という地名は「塩竈」「塩釜」「鹽竈」「鹽釜」と表記されてきた
市は1941年の市制施行より表記を「塩竈(塩釜可)」に統一している



狛犬1






女川の道の駅から鹽竈神社までずっと強い雨が降っていた
到着後、雨は止んだが階段の昇降には注意が必要だった






社号標



境内図






奉納額
「唐獅子(昭和5年)」



「騎馬武者(文久2年)」



「尾長鶏と太鼓(弘化5年)」



「騎馬武者(慶応5年)」



舞殿






仙台藩主伊達綱村公顕彰碑
「塩竈の礎を築いた恩人」とされている



撫で牛



絵馬掛け



奉納額2
「山部赤人と富士山(明治20年)」



「神功皇后と武内宿禰(文久4年)」



「神武天皇(昭和3年)」



表参道
表参道を断念した理由はこの階段



随身門(重要文化財)






狛犬2






長明燈



手水舎



狛犬3






門及び廻廊(重要文化財)



額には「一宮鹽竈三社大明神」



左右宮拝殿(重要文化財)
伊達家4代綱村は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究し現在の三神とした



右宮 祭神:経津主神






左宮 祭神:武甕槌神






銅鐵合製燈籠(塩竃市指定文化財)






日時計(複製)



鹽竈神社の「多羅葉(たらよう)」(宮城県天然記念物)
樹齢500年 樹高22m



文治の燈籠



元禄2年(1689年)松尾芭蕉は鹽竈神社を詣でこの燈籠を観た
奥の細道に「…神前に古き宝燈あり…五百年来の俤、今日の前に浮かびてそぞろ珍し
かれは勇義忠孝の士なり…」と綴っている



別宮拝殿(重要文化財)



別宮に主祭神:塩土老翁神



そろそろ帰ろうと門を出た時、神職らが歩いてきた
調べて見ると毎月10日に開催される「鹽竈神社月次祭」のようだ



このような機会に恵まれることはないので戻って観ることにした



初めに「別宮」に入った
職位によって歩く順番や社殿に入ることのできる場所などがある事が分かった
本殿内の奥深い場所に入ることができるのが一人、宮司だと思われる



別宮の次に左右宮拝殿に入っていった



志波彦神社

社号標



神門



額には「志波彦神社」



狛犬4






拝殿(塩竃市指定文化財)



拝殿内部



上皇陛下御手植五葉松



塩釜港の眺望(境内から)



鳥居



撮影 令和5年10月10日
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大金山 陽山寺(宮城県石巻市十八成浜寺山31)

2024年03月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月8日

大金山 陽山寺
重要文化財の「十一面観音立像」があるということで訪れたが、調べて見ると予約制であることを後に知った
近くのコンビニから電話にて拝観できるかと確認すると、2時間後に予約があり、その時間帯なら可能だと……



普段なら、すぐ諦めるのだが大好きな「十一面観音」の為なら待とうと、拝観をお願いした
待ち時間を使い比較的近くにある「おしか御番所公園」で美しい景色を楽しんだ



山門
30分ほど前に寺に着き、時間がくるまで写真を撮っていた
観光寺院でないのか、案内板が設置されていなかった



山門の額には山号の「大金山」



本堂



本堂の額には寺号の「陽山寺」



この本堂に「十一面観音」があるものと、この時は思っていた……



10分程前に住職らしき人が車で出ていき
5分前になっても予約らしき人の姿もない(不安になる)












時間になったが誰も現れない
庫裏から出てこられた女性から「予約をされている方ですか」と声を掛けられた
「はい」と応えると。「ここではありませんよ」と、2・3km先にある場所を伝えられた



「重文の十一面観音立像」には管理者が必要で、それを担っているのが「陽山寺」のようだ
住職から寺に連絡が入ったようで、待ってくださっているとのこと(感謝)



収蔵庫
収蔵庫内に「重文の十一面観音立像」が保管されている
収蔵庫は写真のように少し高台にあったため、東北地方太平洋沖地震の難を免れた
ここはかつて「後山寺または持福院」という寺であった
現在は無住となり、持福院観音堂と収蔵庫の十一面観音像は、近隣の陽山寺が管理している
収蔵庫内は撮影禁止。この仏像は過去にも伝説があり今日に至っている



伝承によれば、陸奥の安倍氏が京都より名工を呼び寄せて作らせた
平安中期の前九年の役で安倍氏が滅亡する際に兵火を逃れて海に流され、仙台湾(石巻湾)の田代島に流れ着いた
後難を怖れた島民によって再び流され、対岸である牡鹿半島のこの場所に流れ着いたという

木造十一面観音立像 | 笑顔咲くたび伊達な旅

木造十一面観音立像 | 笑顔咲くたび伊達な旅

大正4年に国重要文化財に指定された十一面観音立像は、高さは3m余りあり、ふくよかな気品は昔から多くの人々に変らぬ慈眼を注いできました。この観音像は鎌倉時代に奥州藤...

笑顔咲くたび伊達な旅

 


収蔵庫までの道幅が狭く、駐車場も無かったため離れた場所に路上駐車をしていた
駐禁場所ではなかったが、早く戻らなければと気持ちは急いていた



持福院観音堂(宮城県指定文化財)
大同元年(806年)創建、現在のものは宝暦5年(1757年)改修といわれている



案内板



十一面観音立像は、この持福院観音堂に祀られていた



撮影 令和5年10月8日
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無夷山 箟峯寺(宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡1)

2024年03月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月7日

無夷山(むいさん) 箟峯寺(こんぽうじ)
天台宗の寺院
宝亀元年(770年)鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創
大同2年(807年)坂上田村麻呂の創建と伝えられる



案内板によると、箟峯寺とは観音堂、白山社などを中心に24坊からなる一山寺院(総称)
当初、「霧岳山 正福寺」と称していたが、嘉祥2年(849年)に円仁が中興し、「無夷山 箟峯寺」と改称した



この寺を選択したのは
武光誠 著「地図でめぐる神社とお寺」に「笑みを浮かべたように見える仁王像がある」の記載があったからだ
これまで訪れた寺院の仁王像を地域別に発信した際に「笑顔の仁王像はないのか」とコメントを頂いたことがある
仁王像なので「ありませんよ」と応えただけに確かめたいと思った



仁王門
長い階段を上がっていくと、仁王門が見えてみた



仁王像の事ばかり頭にあり、狛犬を撮り忘れていたことに、今気づいた



仁王像を観る前に、呼吸と心拍数が落ち着くまで休憩した
仁王門は、文久2年(1861年)に再建された



仁王像(微笑み仁王)
確かに憤怒の表情ではなく、微笑んでいるように見える
最近のものなのかと思ったが、天保14年(1843年)完成とある

阿形像(金剛神・東王父)
これまで仁王門を通過する際、両側から睨めつけられていた



笑顔で迎えられるのはとても気持ちがいい



作者は、法橋雲竜安高



吽形像(執金剛仏・西王母)









奉納草鞋



観音堂(宮城県指定文化財)
仁王門から更に階段が続く
正面に観音堂が見えてくる



大同2年(807年) 京都清水寺より「十一面観世音菩薩」を御本尊として勧請
天保13年(1842年)火災によって消失
嘉永4年(1851年)観音堂を再建









一隅碑



国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり
道心ある人を名づけて国宝と為す
故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず
一隅を照す、此れ則ち国宝なりと
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり
能く行いて言うこと能わざるは国の用なり
能く行い能く言うは国の宝なり
三品の内、唯言うこと能わず
行うこと能わざるを国の賊と為す
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す
悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり



観音堂の彫刻












額には「奥州鎮護」



本尊:十一面観世音菩薩(秘仏)
平成20年(2008年)33年に1度の本尊の御開帳が行われた



菩提樹



義啓・雄淳・六字名号供養碑









寛文の鐘



山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』を読んで感動したことを思い出した
平幹二朗主演のNHK大河ドラマも視たが、この寺とつながらなかった縁があったとは……



田村麻呂将軍一千年供養塔






天台大師像
頭に大きなこぶが乗っているように見える珍しい像



頭上のこぶは大師が座禅に打ち込んだ際に居眠り防止のために使用した禅鎮で
うとうとすると頭から落ちてしまう



四郎杉(涌谷町指定天然記念物)






三郎杉(涌谷町指定天然記念物)






夫婦杉(涌谷町指定天然記念物)






二郎杉(涌谷町指定天然記念物)



太郎杉(涌谷町指定天然記念物)



健康の鐘
苦しみは楽しみに  楽しみは喜びに
喜びは幸せに 幸せは健康に
健康は一生の宝物



「おくのほそみち」展望台



かつて、源義経が弁慶を供にして歩き、松尾芭蕉も曽良を供に眼下の道を歩いたという



東北6県を旅をするにあたり、芭蕉縁の地を訪れようと思っていた(思い出した)



忠魂碑



地蔵菩薩
寛保3年(1743年)の建立



秋の山唄発祥之地碑






山王堂



堂内の様子



鐘楼



観音堂前に戻った



眼下には仁王門



仁王像






白山堂






撮影 令和5年10月7日
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