神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

清原和博氏は捕まってよかった。何より本人のために。

2016年02月04日 10時26分13秒 | 私の意見
私は、清原和博氏のことが好きである。

高校球児だったころの清原氏の活躍も応援していたし、その後も応援していた。

卒業時のドラフトで、読売ジャイアンツや桑田真澄氏に裏切られたときは、彼のために私も憤慨したものだった。

一昨日は、彼が逮捕されたことが日本中を駆け巡ったが、私は、逮捕されても清原氏を応援し続けたい。

清原氏は、クールでクレバー桑田氏より情があると思う。

清原氏は、情が弱さにもなったのだろう。

かつて裏切られたことが現在も尾を引いているとは思わないが、屈折した気持ちは、ずっと持ち続けていただろう。

デリケートで傷つきやすい彼が覚せい剤に走ったのは、弱いといえば弱いが、彼らしいともいえるかもしれない。

覚せい剤という代物は、一度中毒になったら、自力で止めることはむずかしいと聞く。

覚せい剤を止めて、ふたたび活躍するためには、彼は、捕まってよかったと思う。

しかるべき施設で、覚せい剤中毒から抜け出して、ふたたび元気な姿を見せてほしいと思う。

彼は奥さんとは離婚されたらしいが、愛する息子さんたちがいる。

その息子さんたちのためにも、もう一度復活してほしいと思う。

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私の兄も、覚せい剤ではないが、アルコール依存症になり、それが命取りになった。

兄も、見かけによらず、やさしい、デリケートな人間だった。

あんなふうに早世するのだったら、アルコールを断つ施設にでも入所して、依存症から抜け出してほしかったと思う。

私自身は、3年前、覚せい剤と同じか、それ以上に危ない、向精神薬で、大変な目に遭った。

現代医学で、あんな危険な薬を処方されるなど、思いもよらなかった。

覚せい剤は、まだそれを抜けるための施設があるからよいが、精神薬中毒のほうは、その施設はおろか精神薬が危険なものだという認識すら世間一般に知られていない。

被害者の私は、声を大にして言いたい。

少し精神的にダメージを受けたからといって、安易に、心療内科とか精神科には掛からないでいただきたいと。

当の医師ですら、その怖ろしさを理解しないまま処方している場合もある、精神薬には絶対に関わらないようにしてほしいと思う。

強制隔離されて体から薬を出す施設のある覚せい剤のほうが、断薬の施設もない精神薬の中毒患者にならされるより、ずっと幸せかもしれない。

清原和博さん、頑張ってください。

  中毒になるとも知らず処方され中毒患者にならされてゆく  biko

最近自殺者が減ってきているのは、精神薬の服用者が減ってきているからだと聞く。

  いつの日か悪徳製薬会社とか悪徳精神科医に天罰  biko

頑張ることはよいことではない!?

2016年02月04日 05時46分56秒 | 私の意見
母の現在を見て考えたこと。

「頑張ることはよいことではない」ということだ。

スポーツにおいても、勉学においても、周囲の人間は「頑張れ」「頑張れ」と連呼する。

私も言われてきたし、言いもしてきた。

しかし、果たして頑張ることはよいことだろうか?

母が現在、周囲の人に疎まれるのは頑張りすぎるからではないか。

脳梗塞の後遺症で左半身が不自由であるにも関わらず、未だに自分の生涯をかけてきた活け花から離れようとしない。

これは頑張り以外の何者でもない。

確かに、倒れた直後の左半身不随の状態から脱したのは、母の頑張りだった。それは認める。

そして、またお弟子さんの助力を得ながら、曲がりなりにもいけばな界に復活したのは見事というしかない。

が、もともと人使いの荒い人が、その権力を失っても同じ調子で君臨しようとしたから、だんだんお弟子さんが離れていった。

活け花を教えるといっても、頭の脳幹がショートしてしまった人にはむずかしい、複雑な技術は駆使できなくなっていた。

それで、上手なお弟子さんに収入の一部を分けながら生け花教室を続けようとしたが、お弟子さんを朝から呼びつけて一日中働かせるものだから、家庭のあるお弟子さんは勝手に午後からしか来なくなった。それで、母は怒って、その一番弟子さんを辞めさせてしまった。

私は、母が悪いと思うのだが、しかし、母自身、家庭を捨てて自分の師事する先生に尽くした時期もあった。だから、そういうものだと思っていたふしが見える。

母が活躍をし始めたのは、私が結婚をしたあとくらいからだ。

その頃は、もうその師事していた先生を抜いて、その流派で頭角を現していた。

父が単身赴任をしていたことをいいことに全国を飛びまわっていた。

私の子育ての時期も、最低月に一度来るが、私がどんなに子育てが大変なときでも、お皿ひとつ洗ってくれることもなく、ただ自分だけが喋って、食べて、寝て、飛び立つのが常であった。

経済的な援助だけはしてくれた。(「だけ」とはいえない大事なものであるが)

聴覚障害があって、体も丈夫ではない私にとって、それは有り難いことであった。

だから、何でも母に従ってきた。

しかし、ここに至って思う。母は頑張りすぎると。

女学校のころも上級生の師範学校の生徒を差し置いて、バスケットボール部のキャプテンをしていたという。(母の女学校は師範学校の附属であった)

毎晩暗くなるまで練習して、部活の終わったあとは高知駅までダッシュして少ない本数の汽車にぎりぎりセーフで乗って帰宅したという。

そのころ頑張りすぎた後遺症で、脚の静脈血管があちこち切れているといっていた。

母の女学校時代は戦時だったから、「頑張れ頑張れ」のムード一色だったのだろう。

真面目な母は、その掛け声どおり、頑張って頑張って生きてきたに違いない。

それは分からないでもない。

しかし、それは正しいことであっただろうか?

「頑張る」は、唯一絶対のものだろうか?

母の現在の晩年を見ながら、そんなことを思う。

  頑張りが周囲の人の迷惑になるを思はずなほも頑張る  biko