神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

川島なお美さん亡くなる&12年前の私の遺書

2015年09月25日 16時52分45秒 | ニュース
昨日、くりまんじゅうさんへのコメント返しでも書いたが、私のケイタイのカメラ機能が使えなくなった。が、不思議なことに、このブログに投稿するカメラ機能は生きている。で、一昨日の神戸六甲山では六甲比命神社をブログ草稿に撮影してきたついでに記事にしてアップした。

諸般の事情が重なってブログは止めたのだったが、今日は、川島なお美さんの死去を聞いて、何か書きたくなったので、禁を犯して?書くことにする。

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私は、夜中に目覚めてネットで「花山天皇」のことを調べていたから、川島なお美さんの死去は夜中に知ることができた。

今朝は、どのテレビ局でもその話で持ちきりだ。

美人女優さんだったから、その若さを悼む論調一辺倒だ。

54歳、今の私の年齢からすると、たしかに若い。

が、私も、55歳のときに、心臓弁膜症で一度死に掛けた。

川島さんも、もう2ヶ月で55歳だったから私の最初の死期と変わりなかったことになる。

が、私は、当時、私が死ぬのはまだ若すぎるなどとは思いもしなかった。

十分生きたとも思わなかったが、とにかくまだ大学2年になったばかりで下宿を始めたばかりの次男が心配でならなかった。

夫に聞けば、私の母は最初落ち着いていたらしかったが、あとで、これは大変なことと気づいたようで、私が手術を受ける前日に喪服持参で(笑)病院にかけつけてくれた。

娘は生後3ヶ月の、私の初孫を連れて東京から駆けつけてくれた。

緊急を要する病態だったから、入院後5日目に手術は行われた。

近年は、心臓手術の成功率は飛躍的に高くなっているので、心配することはなかった。

それでも、心臓弁膜症の診断がつくまでの数ヶ月は、毎日、もう死ぬか、もう死ぬかというような体調だった。

そのころに書いた遺書が残っている。苦しい最中に書いたので、ごく短い文だが、家族一人ひとりにしたためた。

短い文ながら、そのときの嘘いつわりのない気持ちだった。

あのときは、その後12年も生きながらえるとは思いもしなかった。

あのときに死んでいたほうが家族その他に惜しまれたかもしれないし、兄に先立たれることもなかった。(兄は健康優良児だったから私のほうが先に死ぬと想っていた)

しかし、神様は、その後も大腸癌、一昨年は精神薬の離脱症状、副作用という試練を与えてくださりながら、私を生かしてくださっている。

ここまで生かしていただきながら罰当たりなことをいうようだが、長生きは決して果報ではない。

むしろ適当な年齢で召されたほうが幸せかもしれないと思う。

川島さんのように美貌その他に恵まれていたのなら、もっと長生きしたかったと思うかもしれないが、私のように難聴という障害を与えられていると長生きするしんどさもある。

が、先日の敬老の日には長男のところでいろいろご馳走になった。私は子供には恵まれていると思う。子供だけでなく、その伴侶も皆すばらしい人たちだ。

感謝しないと、それこそ罰が当たるだろう。