癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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シルディ・サイババ(元素を制御するババの)

2011-09-29 | シルディ・サイババ

ババが元素を制御することを示す2つの事例を挙げて、本章を締めくくることにする。()かつてシルディで酷い嵐の晩があった。空は厚くて黒い雲で覆われていた。猛烈な風が吹き始め、雲がうなりを上げ、稲妻が走り、土砂降りの雨が降り始めた。わずかの間に、全土が水で溢れてしまった。鳥も家畜も人間も、全ての生き物が恐れおののき、マスジッドへ避難しに集まってきた。シルディには土地の神々がいたが、誰もそちらへ助けを求めには行かなかった。

 

 

そこで彼らは、彼らの神であり、彼らの信仰を好み、嵐をとりなし鎮めてくれるババに祈った。ババは非常に心を動かされた。彼は出てきてマスジッドの端に立ち、轟くような大声で嵐に向かって叫んだ。「止まれ。猛威を振るうのを辞めて鎮まれ!」数分のうちに、雨は静まり、風は吹くのを止め、嵐は収まった。それから空には月が昇り、人々は喜んで家に帰ったのである。(2)別の時、正午頃にドゥーニの火が明るく燃え始め、その炎は上の垂木にまで届きそうになった。

 

 

マスジッドに座っていた人々はどうしてよいか分かなかった。彼らは水を掛けてくれるようババに頼むことができず、炎を鎮める術がなかった。だがババは起きていることを察知した。彼はサトカ(短い棒)を取り上げ、正面の支柱に打ち付けながら言った。「落ち着いて、鎮まりなさい」サトカを打ち付けるたびに、炎は鎮まり、数分のうちにドゥーニはいつものように穏やかになったのだった。

 

 

これが神の化身である私たちのサイである。彼はその前にひれ伏し、全てを委ねる者を誰でも祝福する。信仰を持って本章の物語を毎日読む人は、すぐにあらゆる惨事を逃れることができる。それだけでなく、常にサイに心を置き信仰する者はすぐに神のビジョンを得て、望みは満たされ、欲望のない究極の状態になって、至福を得ることができるのである。アーメン!

 

 


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シルディ・サイババ(ハッジのシッディック・ファルケ)

2011-09-29 | シルディ・サイババ

ババがいつ帰依者を受け入れるかは分からなかった。それは彼の意志にかかっていた。シッディック・ファルケの物語はこの点を綴ったものである。カルヤンのサディック・ファルケというイスラム教の紳士が、メッカとマジナへの巡礼の旅を終えて、シルディにやってきた。

 

 

彼はチャヴァディに住んでいて、マスジッドの中庭に北を向いて座っていた。9ヶ月の間ババは彼を無視し、マスジッドに入ることを許さなかった。ファルケは悲嘆に暮れて、どうしてよいか分からなかった。誰かが彼にがっかりすることはない、ババに近い熱心な帰依者のシャマ(マドハヴラオ・デシュパンド)を介して近づいてみるといいと助言した。

 

 

彼は、人々が主シヴァの召使であり帰依者のナンディを通じて主に近づいたように、シャマを通してババに近づけばよいと言った。ファルケはこのアイデアを気に入って、シャマに彼をとりなしてくれるように懇願した。シャマはこれに同意して、頃合を見計らってババに彼のことを話した。

 

 

「ババ、なぜ年老いたハッジにマスジッドに入ることをお許しにならないのですか?大勢の人々が自由に出入りしてあなたのダルシャンを受けているというのに、なぜ彼を一度も祝福されないのですか?」ババは応えて言った。「シャマ、君はこれを理解するほど成熟していない。アラーが許さないものを、どうして私が許すことができようか?彼の恩寵なしに、誰がマスジッドに上ることができるだろう?彼のところに行って、バルヴィ井戸の近くの狭い小道を来ることができるか、聞いてきなさい」シャマは聞きに行くと、これを肯定する答えを持って帰ってきた。

 

 

ババはシャマに言った。「彼に、4回の分割払いで合計40,000ルピーを私に支払うつもりがあるか、聞いてきなさい」シャマは行って、4,000,000ルピーですら払うつもりがあるという答えをもって帰ってきた。再びババはシャマに言った。「これからマスジッドで羊をさばこうと思うが、彼に羊の足や腰や睾丸を食べるつもりがあるか聞いてきなさい」シャマは、ハッジはババのコランバ(くずいれ)のパンくずであろうと喜んで戴きますという答えを持って戻ってきた。

 

 

これを聞いてババは激昂し、土製のツボとコランバを手にとって投げつけ、直接ハッジのところへ行き、カフニを腕にたくしあげてこう言った。「お前はなぜ年老いたハッジとしての自分を自慢し気取るのか?こんな風にコーランを読むのか?お前はメッカへの巡礼の旅を誇りに思っている。

 

 

だが私のことは知らないではないか」このように叱られ、ハッジは狼狽した。それからババはマスジッドへ戻り、バスケットに入ったマンゴーを買い、ハッジに送った。それからまたババはハッジのところへ行って、自分のポケットから55ルピーを取り出し、ハッジの手に渡した。それ以降ババはハッジを愛し、食事に彼を招き、ハッジは好きなときにマスジッドに入れるようになった。ババは時折、数ルピーを彼にやり、ハッジはババのダルバールに入ることができたのである。

 

 


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シルディ・サイババ(ドクター・パンディットの礼拝)

2011-09-29 | シルディ・サイババ

タティヤサヘブ・ヌールカールの友人のドクター・パンディットはある時ババのダルシャンを受けにシルディにやってきた。ババに敬礼をしてから、彼はしばらくマスジッドに座っていた。ババは彼にダダバット・ケルカールの所に行くように言った。

 

 

彼はダダバットの元へ行き、歓迎された。それからダダバットはプジャをする為に家を出るので、ドクター・パンディットも彼について行った。ダダバットはババを礼拝した。そのときまでは誰もババの額に白檀の練り粉を付けようとはしなかった。ムハルサパティだけがババの首にいつも付けていた。

 

 

だが純真な思いから、ドクター・パンディットはプジャの道具を入れたダダバットの皿を取り上げて、そこから白檀の練り粉を取り、ババの額に三本の水平な線を描いた。皆が驚いたことに、ババは黙ったまま、何も言わなかった。その夜ダダバットはババに尋ねた。

 

 

「あなたは額に他人から白檀の練り粉を塗られるのを嫌がっていたのに、どうしてドクター・パンディットには許したのですか?」ババは、ドクター・パンディットはババを彼のグル、カカ・プラニクで知られたドペシュワールのラグナス・マハラジと同じだと信じていたので、彼のグルにしているようにババの額にも練り粉を付けたのだ、と言った。だからババは異論を唱えることができなかったのだ。

 

 

この質問について、ドクター・パンディットはダダバットに対し、彼はババを自分のグル、カカ・プラニクと同一だと悟ったので、彼のグルにしているようにババの額に水平に3本線の練り粉を付けたのだと言った。

 

ババは帰依者たちに、彼らが望むように自分を礼拝することを許していたが、時には奇妙な振る舞いをすることがあった。時折、彼はプジャの皿を投げ、激怒した化身になったため誰も近づくことができなかった。

 

 

時には帰依者を叱った。時には彼は蜜蝋より温和になり、平和と赦しの立像であるかのように見えた。彼は怒りで震え、真っ赤な目をぐるぐる回して見せたが、内面的には情愛の海であり母なる愛であった。彼は帰依者たちに呼びかけて、自分は彼らのことを怒ったことなど一度もないと言った。

 

 

もし母親が子供を蹴り飛ばしたり、海が河に逆流するようなことがあれば、自分も帰依者たちの幸福を放棄できるかもしれない。だが帰依者たちの奴隷である自分は、常に彼らの傍らに立ち、彼らが自分を呼ぶ時にはいつでも彼らに応え、常に彼らの愛を求めているのだ、と言ったのである。

 

 


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シルディ・サイババ(サグン)

2011-09-29 | シルディ・サイババ

サグン(顕現した)・ブラフマンとしてのサイ

 

神またはブラフマンには2つの側面がある。(1)顕現していない(ニルグン)場合、(2)顕現している(サグン)場合。ニルグンは形がなく、サグンは形を持つ。どちらも同じブラフマンを示している。ある者は前者を礼拝するのを好み、ある者は後者を好む。ギータ(十三章)に述べられているように、後者を礼拝する方が容易で好ましい。

 

 

人は形を持っている(肉体、感覚など)ので、形ある神を礼拝するのは自然なことである。私たちの愛と信仰心は、ある一定の期間は顕現したブラフマンを礼拝しない限り成長することがなく、私たちの成長する過程でやがて顕現していないブラフマンを礼拝(瞑想)するように導かれていく。

 

 

だからサグンを礼拝することから始めよう。像、祭壇、火、光、太陽、水、ブラフマンは礼拝の7つの対象である。だがサドグルはこれらより尚良い。この機会に私たちの心に、無執着の化身であり、帰依者のための安息所であるサイの姿を思い浮かべよう。彼の言葉を信仰することはアサンである。

 

 

私たちのサンカルパ(プジャを成し遂げるという決意)は私たちの欲望を放棄するものである。ある者はサイがバガヴァッド・バクタ(主の帰依者)であると言い、別のものは彼はマハ・バガヴァッド(偉大な帰依者)であると言った。だが私たちにとって彼は主の化身である。彼は常に許し、イライラすることなく、率直で、穏やかで、忍耐強く、満ち足りていて、比類のない方だった。

 

 

彼は具現化して(姿を持って)いるように見えたけれども、本当はそうではなく、感情はなく、執着もなく、内面は自由であった。ガンジス河は海に至る途中で、暑さに冒された生き物たちを冷やして元気付け、作物や木々に命を与え、大勢の喉の渇きを潤している。同様にサイのような聖者も、生きている間に、皆に慰めと安らぎを与えてくれる。主クリシュナは、聖者は私の魂であり、私の生きる偶像であり、私は彼であり、彼は私の純粋な形(存在)である、と言っている。

 

 

この名状しがたいシャクティ、神の力が純粋な存在として、知識や至福として、シルディのサイの姿に化身したのである。シュルティ(タイッティリヤ・ウパニシャド)はブラフマンを純粋な至福であると記述している。このことを私たちは本書で毎日読んだり聴いたりしているが、信心深い人々はこのシルディのブラフマンや至福を体験したのである。

 

 

万人の支持者であるババは、誰からの支援もアサンも必要としなかった。彼はいつもバクタたちが用意した小さな敷布団の付いた椅子にかける布切れと、背中を休める長枕を持っていた。ババは帰依者たちの気持ちを尊重し、彼らの好きな様に礼拝することを許した。ある者は彼をチャマールという扇子で扇ぎ、ある者は楽器を演奏し、ある者は彼の手足を洗い、ある者は香やチャンダンを焚き、ある者は葉に包んだビンロウジを送り、ある者はナイヴァイディヤを捧げた。

 

 

彼はシルディに住んでいるように見えたが、どこにでも存在していた。彼の普遍性は毎日、帰依者たちが体験していた。この遍在するサドグルに謙虚にひれ伏そうではないか。

 

 


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