癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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素晴らしい化身

2011-09-11 | シルディ・サイババ

サイババはあらゆるヨガに熟練していた。彼はドーティ(3インチ、長さ22 1/2インチの湿らせたリネンで胃腸を洗浄するもの)や、カンダナヨガ、すなわちサマディの状態で手足を切り離して再び繋ぎ合わせるもの、を含む6つのプロセスに非常に精通していた。彼はヒンドゥー教徒かと思えば、ヤーヴァン(イスラム教徒)のようにも見えた。ヤーヴァンかと思えば、敬虔なヒンドゥー教徒にも見えた。


彼がヒンドゥー教徒なのか、イスラム教徒なのか誰もはっきりとは知らなかった。彼はヒンドゥー教の祭であるラーム・ナヴァミをきちんとした儀式にのっとって祝い、同時にイスラム教徒の
サンダルの行進をも許可した。彼はこの祭の中でレスリングの試合も応援した。コークル・アシュタミがやってきたときには、彼はゴーパル・カラ(ラーム・ナヴァミ祭の最後の日に行われるヒンドゥー教の祭)を行い、イド(犠牲祭)のときにはイスラム教徒にマスジッドの中で彼らの祈りの言葉(ナマズ)を唱えることを許可した。


以前イスラム教徒の祭典の折、あるイスラム教徒がマスジッドでタジヤ
(巡礼に行かれない帰依者らが式典で作る大霊廟のミニチュア)またはタブート()を作り、村を行進して回るまでの間、しばらく保管させてもらいたいと願い出た。サイババはタブートを4日間保管することを許可し、5日目には躊躇なくマスジッドから担ぎ出させた。


もし私たちが彼はイスラム教徒だと言えば、彼の目は穴が開いた
(ヒンドゥーの言い伝えで目には穴が開いているとされている)。もし彼がヒンドゥー教徒だと思えば、彼は割礼の慣習を唱道した(彼を間近で観察したナナサヘブ・チャンドルカール氏によると、彼自身は割礼をしていなかったというが。B.V.Dev執筆の”Baba Hindu ki Yavan”にある”Sai Leela”の記事562項参照)。もし彼をヒンドゥー教徒と呼べば、彼は常にマスジッドに暮らした。


もしイスラム教徒と呼べば、彼は常にドゥーニの聖なる火の前に行き、イスラムの教義とは正反対の事柄をしてみせた。すなわち手動のひき臼を回し、ほら貝を吹き鈴を鳴らし、火に供物を捧げ、バジャンを歌い、アーギヤ
()の慣習でババに食べ物を与え、御足を礼拝することを許したりした。もし彼がイスラム教徒だと思うと、最高位のブラーミンたちは彼らの伝統的なやり方を脇に置いて、ババの足元にひれ伏した。彼のカーストについて質問をしに行った人々は、彼のダルシャンに魅入られて物が言えないほどびっくりしてしまうのだ。それだからサイババがヒンドゥー教徒なのかイスラム教徒なのか、誰にもはっきりとは決められなかった*


これは何も不思議なことではない。なぜなら彼はエゴイズムや肉体意識を捨て去り、完全に主に全てを委ねていて、神と一体となっており、カーストや国籍などといったいかなる問題とも無縁だったからだ。ババはカーストの間はおろか、生き物の間にさえも違いを見出さなかった。彼はファーキルたちと共に肉や魚を食べたが、犬が皿に口をつけても文句は言わなかった。

 

このようにサイババは他に類を見ない素晴らしい化身であった。私は過去世の功徳のお陰で、幸運にも彼の足元に座り、その恵みを享受している。私がそこで得た喜びは何物にも変えがたいものであった。実際、サイババは純粋なアーナンダ(至福)であり、意識であった。私は彼や、彼の偉大さ、比類のなさを充分に表現することができない。彼の足元で喜びを得た者は彼自身の中に落ち着いてしまう。多くのサニヤシやサーダカらが救いを熱望してサイババの元へやってくる。彼はいつも彼らと共に歩き、話し、笑い、そしてアッラー・マリク”(アラーは唯一の支配者)と口に出していた。彼は議論や論争を好まなかった。


彼は時としてイライラすることもあったが、常に穏やかで自制心があり、常にヴェーダンタについて説いていたが、最後までババが誰なのかについては分からないままだった。彼は王子と貧しい人々を同様に扱った。彼は最も奥にある秘密を知っており、それについて話すと皆は一様に驚いた。彼は知識の宝庫であったが、無知のふりをしていた。彼は名誉を嫌った。それがサイババの性質だった。彼は人間の肉体を持っていたが、その振る舞いは彼が神であることを証明していた。全ての人々が彼をシルディに臨在する神だと考えていた。

 

*注釈:(1)シルディに住むババの熱心な帰依者であり、マスジッドやチャヴァディでババと常に共に眠ったムハルサパティは、サイババは自分のことをパタリのブラーミンであったが、幼少の頃にファーキルにもらわれたのだと話したという。彼がこのことを話したとき、パタリ出身の数人がババの元へやってきて、ババは彼らにその場所のことを尋ねていたという(1924年版”Sai Leela”,179項参照)


(2)高名なプーナの博識な女性カシバイ・カニトカール夫人は1934年版”Sai Leela” vol.1179項に掲載された体験その8’の中でこう述べている。「ババの奇跡のことを聞いて、私たちは神智学の慣習や流儀に従って、サイババがイスラム教徒なのかヒンドゥー教徒なのかについて話し合いました。私はこのことを心の中で真剣に考えて、シルディに出かけて見ました。マスジッドの階段に近づくとすぐに、ババが正面にやって来て彼の胸を指差して私をじっと見つめ、情熱的に語りました。「これはブラーミン、純粋なブラーミンだ。彼はイスラム教とは何の関係もない。ここはブラーミンのマスジッドであり、私は黒のイスラム教徒がこの場所に入るのを許さない」


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マスジッドの修復

2011-09-11 | シルディ・サイババ

ゴーパル・グンドにまた別の重要な考えが浮かんだ。ウルスが始まった頃、彼はマスジッドを修復するべきだと考えたのだ。修復を行うために、彼は石を集め石材として手入れをした。だがこの仕事は彼に割り振られたものではなかった。


この仕事はナナサヘブ・チャンドルカールに、舗装の仕事はカカサヘブ・ディクシットのためにとってあった。当初、ババはこの作業を許可したがらなかったが、ババの地元の帰依者であるムハルサパティの仲介によって、許可がおりることになった。ババはそれまで使っていたいつもの布切れを捨て、腰掛用に小さなガディを使った。


1911年にはサブハ・マンダップ(中庭)も大変な作業と努力できちんと手入れがされた。マスジッドの正面にあるオープンスペースは非常に小さくて不便だった。カカサヘブ・ディクシットはこれを拡張して屋根を取り付けたいと考えた。多額の費用をかけて、彼は鉄の柱に支柱、けた構えを入手し、作業を始めた。夜になると帰依者みんなが熱心に働き支柱を据えた。


だがババは翌朝チャヴァディから戻ると、それらを全て引っこ抜いて投げ出してしまった。ババは大変興奮して、片手でポールを掴み揺すって引っこ抜き、もう一方の手でタティヤ・パティルの首を掴んだ。彼は力ずくでタティヤを掴みながら、マッチを打って火をつけ、それをピットに投げ込んだ。そのとき、ババの目は残り火のように閃いた。皆、震え上がってしまい、誰もババを見ることができなかった。ババはポケットからルピーを取り出すと、吉兆の日の捧げ物であるかのうようにそこに投げた。タティヤもまた非常に怯えていた。


これからタティヤの身に何が起こるのか誰にもわからなかったし、口出しのできるものもいなかった。ババの帰依者でらい病患者のバゴジ・シンドは勇気を持って進み出たが、ババに脇へとよけられてしまった。マドハヴラオもまた同様の扱いを受け、レンガのかけらを投げつけられてしまった。とりなしに入った全員が同じように扱われた。だがしばらくして、ババの怒りが収まってきた。彼は小売店主を呼びにやり、刺繍をしたペータを手にして、まるで彼が特別な名誉を授けるかのようにババ自身でそれをタティヤの頭に巻きつけた。そこにいた全員が驚き呆れてババの奇妙な振る舞いを見つめた。


彼らはババが急に怒り出してタティヤ・パティルに襲い掛かったことで途方に暮れ、次の瞬間にババの怒りがなぜ収まったのか分からずにまた途方に暮れた。ババは時には非常に穏やかで静かで愛を持って美しい話をしたが、どんな理由によるものか、突然に怒るのだった。このような出来事が数多く語られているが、私はどれをここに記載し、どれを省くべきか分からない。そこで私が目撃した出来事を記載しておく。

 

次章では、ババはヒンドゥー教徒であったのか、イスラム教徒であったのかという疑問について取り上げ、彼のヨガの実践とパワー、その他の事柄について扱うことにする。

 

              スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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