癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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シルディ・サイババ(‘サンダル’の行進)

2011-09-04 | 聖者
・シルディ・サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように
 
 

この祭で始まったもう一つの行進があった。サンダルの行進というアイデアを思いついたのは、コールフラのイスラム教徒のバクタ、アミール・シャッカール・ダラル氏であった。この行進は偉大なイスラム教の聖者たちに敬意を表して行われた

 

 

サンダル、すなわちチャンダンのペーストとくず鉄をタリ(平らな皿)の中に置き、その前で香を焚いてバンドの演奏と共に村を行進して運んでいくのだ。そしてマスジッドに戻ってくると、皿の中身はニンバー’(壁龕)やマスジッドの壁に手で塗りつけられる。この作業は最初の3年間はアミール・シャッカール氏によって管理され、その後は彼の妻が行った。つまり同じ日に2つの行進、ヒンドゥー教徒によるの行進と、イスラム教徒によるサンダルの行進が隣同士で行われ、現在も問題を起こすことなく続けられている。

 


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シルディ・サイババ(起 源)

2011-09-04 | 聖者

シルディ・サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように

 

 

ゴーパルラオ・グンド氏はコペルガオンの調査局の調査員だった。彼はババの大変な帰依者だった。彼には3人妻がいたが、子がなかった。サイババの恩恵で、息子が生まれた。これに喜んだ彼は、1897年にウルス1の祭で祝いたいという考えを思いつき、他のシルディの帰依者たち、すなわちタティヤ・パティル、ダダ・コテ・パティル、マドハヴラオ・デシュパンド(シャマ)らにそのことを検討してくれるよう話した。

 

 

彼らはみなこの考えに同意し、サイババの許可と祝福を得た。そこでウルスを祝うため徴収官2の認可を求める申請をあげたが、クルカルニ村が祭の開催に反対したため、認可されなかった。だがサイババがこれを祝福していたので、彼らは再度申請を試み無事に徴収官の認可を得ることに成功した。サイババと相談した後、ウルスの日取りはラーム・ナヴァミの日と定めた。この背後には、ウルスとラーム・ナヴァミの2つの祭を統一し、2つの共同体、ヒンドゥーとイスラムを統一する、というサイババの意図があるように思われる。この先の出来事を見ればわかるように、この意図は完全に達成されたのである。

 

 

認可は下りたものの、他の障害が持ち上がった。シルディ村には水が不足していた。村には2つの井戸があったが、一つは枯れる寸前で、もう一つの井戸の水は塩気を含んでいた。この塩気のある水は、サイババが井戸に花を落とすことによって純粋な水に変わった。この井戸の水だけでは不十分だったので、タティヤ・パティルは外部から水を調達しなくてはならなかった。臨時の店舗が作られ、レスリングの試合が行われた。ゴーパルラオ・グンドには、アーメドナガールのダム・アンナ・カサールという友人がいた。彼には妻が2人いたが、子孫の問題で同様に悩んでいた。

 

 

彼もまたサイババの祝福によって息子たちを授かったため、グンド氏は彼の友人に祭の行進用の旗を用意して提供してくれるよう説き伏せた。彼はまたナナサヘブ・ニモンカール氏にも別の旗を提供してもらうことになった。これらの旗は村中を行進する際に使われ、最終的にはサイババがドワルカマイと呼ぶマスジッドの2つの隅に置かれることとなった。この慣習は今でも行われている。

 

1.      ウルスはイスラム教の聖者たちの墓で行われる祝い。ヒンドゥー教徒であるグンド氏がこんなアイデアを思いついたのは驚きである。

2.      地区の行政長官。彼は土地の収益を徴収する担当でもあるため、徴収官と呼ばれている。

 


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シルディ・サイババ(グルの手の一触れの効能)

2011-09-04 | 聖者
シルディ・サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように
 
・サドグルが舵手であれば、彼は確実に世俗の海の向こうへと安全かつ快適に私たちを運んでくれる。サドグルという言葉から連想するのは、完全なマスターであるサイババである。彼は私の前に現れて、眼前に立ち、額にウディ(聖なる灰)を付け、その手を頭に置いて祝福をしてくれるのだ。
 
 

すると喜びが私の心を満たし、愛が瞳からあふれ出す。グルの手の一触れの力とは素晴らしいものだ。大きな炎で燃やすことのできないサトルボディ(思考と願望で出来ている)も、グルの手による一触れで破壊され、たくさんの過去世の罪も清められ洗い流されるのである。宗教的な話や神の話を聞くと動揺する人たちも、穏やかに話すようになる。サイババのハンサムな容貌を見ると、私たちは喜びで息がつまり、目からは涙が溢れ、心は感情に圧倒されてしまう。

 

 

彼を見ることで、私たちに「私は神である」(ソーハム)というブラフマン意識を呼び起こし、自己認識の喜びと私とあなたの区別の溶解が起こり、私たちは至高の存在(一つの真実)によって一つになるのである。聖典を読み始めると、随所で私は自分のサドグルであるサイババのことを思い出し、彼がラーマやクリシュナの姿で現れて、その生涯を聞かせてくれていると感じるのである。

 

 

例えば、私がバグワットを聞いているとき、サイは頭の先から足の先までクリシュナになっており、彼が帰依者の幸福のためにバグワットやウッダヴ・ギータ(主スリ・クリシュナが彼の弟子ウッダヴに授けた教えの歌)を歌っているのだと思うのである。私自身が何かを書き始めると、言葉や文をうまくまとめられないのだが、彼が自発的に私に書かせているときには、私は止むことなく書き続けることができるのだ。

 

 

弟子のエゴイズムがつっかい棒になっているときには、彼はその手でそれを押し下げ、弟子に彼自身のパワーを与えて彼の目的を成し遂げさせ、弟子を満足させて祝福するのである。もしも誰であれサイの前にひれ伏してハートも魂も彼に委ねるなら、人生の主な目的、すなわちダルマ(正義)、アルタ()、カーマ(願望)、モクシャ(解脱)は強く懇願せずとも、全てたやすく手に入るのだ

 

 

 4つの道、すなわちカルマ、ダニャン、ヨーガ、バクティはそれぞれの方法で私たちを神へと導く。中でもバクティの道は困難で窪みや溝が多く進むのが大変だ。しかしもしあなたのサドグルが窪みや茨を避けてまっすぐに進ませてくれると信頼するなら、あなたは目的地()へとたどり着くことができるだろう、とサイババは言っている。

 

自己の存在であるブラフマンと、この世を創造する彼のパワー(マーヤ)と、創造されたこの世界についての哲学的説明をして、この3つが究極的には一つであり同一であることを述べた後、筆者はバクタたちの幸福を保証するサイババの言葉を引用している:

 

私の帰依者たちの家では、決して食べ物や衣服が不足することはない。心を常に私に定め、心から私を礼拝する帰依者たちの幸福のために、彼らの面倒を見て必要なものを与えるのが私の特性なのだ。主クリシュナもギータの中で同じことを言っている。だから食べ物や衣服を手に入れようとやっきになるのはやめなさい。欲しい物があれば主に乞いなさい。世俗の名誉は捨て、主の慈悲と恩恵を得て神の庭で栄誉を受けようとしなさい。神の姿をしっかりと心に刻みなさい。

 

 

全ての感覚と心を主の礼拝に捧げ、他のものに心を奪われないようにしなさい。常に私を思い浮かべることに心を定めるなら、心は肉体や富や家といった他の場所を彷徨うことはないだろう。そうすれば穏やかで、平和で、心配がなくなる。これが心が神とよい関係にあるしるしだ。もし心が定まらないのであれば、神の中にうまく溶け込んでいるとは言えない」

 

 

このようにババの言葉を引用したのち、筆者はシルディでのラーム・ナヴァミ祭の物語について述べている。ラーム・ナヴァミはシルディで最も盛大に行われる祭のため、より完全な記述は他にもあり、1925年の”Sri Sai Leela”誌の197項に詳細と概要がともに掲載されているが、ここではその両方の記述について触れてみたい。


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