永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(競馬・くらべうま)

2009年01月09日 | Weblog

 六衛府を中心に武芸の鍛錬(たんれん)のために行われた走馬の競技。左方と右方に分かれて競い、勝負の数を争う団体競技(これを手番(てつがい)という)であった。

 離宮や摂関家(せっかんけ)邸宅への行幸(ぎょうこう)などの際に臨時に行われることもあったが、左右近衛府の場合、練習である荒手番が五月三、四日に、本番の真手番が五日、六日に、それぞれの馬場で行われた。すべての番が終了して左方が勝ったときは「蘭陵王(らんりょうおう)」、右方が勝ったときは「納蘇利(なそり)」の舞楽を舞うことになっていた。

◆参考と写真:上賀茂神社「競馬会神事」  風俗博物館


源氏物語を読んできて(269)

2009年01月08日 | Weblog
09.1/8   269回

【蛍(ほたる)】の巻】  その(2)

 玉鬘は、源氏に打ち明けられた不愉快な物思いのあとなので、兵部卿のお文を心を留めてご覧になるのでした。それは、

「何かと思ふにはあらず、かく心憂き御気色見ぬわざもがな、と、さすがにざれたる所つきて思しけり」
――それは、兵部卿の宮を好ましく思ってのことではなく、源氏のあのような厭な素振りを見ないで済ませたいと、さすがにしっかりと抜け目のないお考えの上なのでした――

 兵部卿の宮は、玉鬘からの快いご返事に玉鬘を訪ねて来られ、几帳越しに心の内を訴えておられます。折を見計らった源氏は、帷子(かたびら)をさっとお引きになって、かねてご用意されていましたたくさんの蛍を、玉鬘の御顔のあたりにお放ちになりました。ほの青い蛍の光に照らし出された玉鬘のご容姿の美しさに、宮はいっそう思いが募ってくるのでした。

 源氏は玉鬘に悩まれる兵部卿の宮を遠くから面白くご覧になられています。実の親ならこんなことはしますまいに。

 宮は、心をこめてお歌を贈ります。(歌)

「なく声も聞こえぬ虫のおもひだに人の消つにはきゆるものかは」
――声も立てぬ蛍の灯でさえ人が消しても消えないのですから、ましてあなたを想う私の心の火の消えることはありません――

 分かって頂けるでしょうね。とのお手紙に、玉鬘は思い迷っていると思われるのも心外ですので、早々にお返しの歌、

「こゑはせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思ひなるめれ」
――声はたてず身ばかり焦がす蛍のほうが、お口に出しておっしゃるあなたより、一層深い思いを持っているでしょう――

 などと、お心のこもらない返歌をなさって、ご自身はそっと奥に引き入ってしまわれました。

 宮は、ひどくよそよそしくなさる玉鬘の冷淡さをたいそうお怨みなっておられます。

◆写真:几帳に隠れている玉鬘   風俗博物館

◆帷子(かたびら)=几帳などに掛けてへだてとした布。夏は生絹(すずし)を、冬は練絹を用いる。ここでは夏の装い。  

ではまた。



源氏物語を読んできて(268)

2009年01月07日 | Weblog
09.1/7   268回

【蛍(ほたる)】の巻】  その(1)

続いて同じ年の五月
  
源氏・太政大臣     36歳の5月
紫の上         28歳
明石の御方       27歳
玉鬘          22歳
夕霧(源氏の長男)   15歳
雲井の雁(内大臣・前頭の中将の外につくった姫君)
            17歳
兵部卿の宮=蛍兵部卿の宮
柏木・右の中将(内大臣の長男・玉鬘とは姉弟)
            20~21歳

「今はかく重々しき程に、よろづのどやかに思ししづめたる御有様なれば、(……)」
――源氏はいまはこうして、摂政という重職のお身で、(忍び歩きなどもおできになれず、万事のんびりと落ち着いたご生活を送っておられます)――

西の対の玉鬘だけは、

「いとほしく、思ひの外なる思ひ添ひて、いかにせむと思し乱るめれ。……何事をも思し知りにたる御齢なれば、母君のおはせずなりにける口惜しさも、またとりかへし惜しく悲しく覚ゆ」
――お可哀そうにも、思いがけない御苦労がふえて、いったいどうしたら良いものかと思い乱れていらっしゃいます。……何事もわきまえのつくお歳なので、源氏とそんな関係になろうとは、人々が想像しそうにもないことですので、あれやこれやを思えば思うほど、こんな辛い目にあうということの原因は、自分を残して母の夕顔が亡くなられたからなのだと、そのことが残念で、今さらのように口惜しく悲しく思われるのでした。――

 源氏も、一旦お心をお現わしになってからは、却って辛さも増されたようで、しきりに西の対へお出でになっては、女房達が遠くにいて人気がない時など、胸の内を訴えなさるのでした。玉鬘は、

「胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞こゆべきにはあらねば、ただ、見知らぬさまにもてなし聞こえ給ふ」
――そのたびに胸のつぶれる思いをなさいますが、きっぱりと源氏を気まり悪いようには拒絶もおできになれず、ただ気づかぬ振りをしていらっしゃる――

 このようなことの中で、玉鬘は万事、注意深く振舞っておられますが、元来お人柄が快活で人懐っこく、愛嬌がおありになって、それが時折りお出になりますようで、その評判に、兵部卿の宮などは真面目に言いよられのでした。五月雨の季節に入れば婚姻を忌む時節なので、ぜひとも姫君の側近くに伺いたものと、気持ちをいらいらさせていらっしゃるのを、源氏は面白がって、玉鬘へ、

「なにかは、この君達の好き給はむは、見どころありなむかし。もて離れてな聞こえ給ひそ。御返り時々聞こえ給へ」
――なに、かまうことない。あの方達が言い寄られるのは、見る甲斐のあるというものだ。お返事はときどきは、しなさい。あまり素っ気なくなさいますなよ――

◆五月雨の季節=五月雨は縁組を忌んだ当時の風習。

ではまた。


源氏物語を読んできて(年中行事・端午の節句)

2009年01月07日 | Weblog
年中行事:五月五日 端午の節句

 端午は本来中国で、最初の午の日のこと(端は最初の意)。後に五月のそれをいうようになり、五月五日をさすようになった。
 梅雨の時期で、蒸し暑くじめじめし、疫病(えきびょう)が流行する頃である。中国ではこの日に、香りが強く、薬効のある蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)が採取されたが、日本でも宮中や貴族の私邸でこれらが屋根に葺(ふ)かれたり、材料に含ませて五色の糸を垂らした薬玉(くすだま)を作り、柱に吊られたりした。菖蒲の根の長さを競う「根合(ねあわせ)」も盛んに行われた。

 また騎射(きしゃ)(馬を走らせて馬上より弓で的を射る行事)や競馬(くらべうま)も宮中や貴族の私邸で行われたが、これも中国で行われた競渡(ボート競争)の影響と考えられている。その勇壮さや、「菖蒲」の音が「尚武」に通じるところから、後世、この日に鎧具足(よろいぐそく)を飾り、男の子の無事成長を祈る行事となっていく。現在、根合や競馬が上賀茂神社で、騎射が「流鏑馬(やぶさめ)神事」として下鴨神社で行われている。
 
◆写真と参考:端午の節句で薬玉を作っている女房   風俗博物館

源氏物語を読んできて(267)

2009年01月06日 | Weblog
09.1/6   267回

【胡蝶(こてふ)】の巻】  その(15)

 源氏は玉鬘に恋心を示されて後は、遠まわしに匂わせなさる事はなくて、うるさく言い寄られることが多くなりましたので、玉鬘はいよいよ窮屈なやり場もない気がなさって、ついにご病気にさえなられたのでした。玉鬘の御心は、

「かくて事の心知る人はすくなうて、疎きも親しきも、無下の親さまに思ひ聞こえたるを、かうやうの気色の洩りいでば、いみじう人笑はれに、憂き名にもあるべきかな」
――こうして真の事情を知る人は少なく、他人も親身の人も、源氏をこの上ない結構な父親と信じていますのに、こうした関係が知れましたなら、たいそうな物笑いになり、必ずや悪評となるでしょう――

「父大臣などの尋ね知り給ふにても、まめまめしき御心ばへにもあらざらむものから、ましていとあはつけう、待ちきき思さむこと、と、萬に安げなう思しみだる」
――父の内大臣などが尋ね出してくださるとしても、もともと芯からのご愛情がおありとも思えませんので、こんなことが知られれば、どんなにお蔑みになることでしょうと、
案じられ、不安でいっぱいになられるのでした――

「宮、大将などは、殿の御気色、もて離れぬさまにつたへ聞き給うて、いとねんごろに聞こえ給ふ。(……)」
――兵部卿の宮と髭黒の大将は、源氏のご意向が、自分たちを離れていないらしいことを聞き伝えて、至極念を入れて玉鬘に言い寄られます。(柏木の中将も、源氏が前に柏木などを軽蔑するのはよくない、と玉鬘にお洩らしなさったということを、小耳にはさんで、実は姉弟であることも知らずに)――

「ただひとへにうれしくて、おりたちうらみ聞こえまどひありくめり」
――柏木は、ただもう喜んで熱心に文を贈ったり、姫君の御住いのあたりを、さまよい歩いたりしているようです。――

【胡蝶(こてふ)】の巻】おわり。

ではまた。