2011.3/29 917
四十六帖 【総角(あげまき)の巻】 その(94)
「かくつれなきものから、内裏わたりにもきこしめして、いと悪しかるべきにおぼしわびて、今日は帰らせ給ひぬ。おろかならず言の葉をつくし給へど、つれなきは苦しきものを、と、一節をおぼし知らせまほしくて、心解けずなりぬ」
――中の君はこのように情けなく、打ち解けるそぶりもお見せになりませんが、といって、いつまでもこちらに泊まって居る訳にもきかず、御所でも事の次第をお耳になさって、きついお咎めもあろうかと思いあぐねられて、匂宮は今日のところはお帰りになることにしました。お別れに際してもう一度、中の君に対して並々ならぬ思いをお言葉を尽くして口説かれましたが、中の君からは、薄情なお仕打ちがどんなに辛く苦しいものか、この一点を思い知らせて差し上げたくて、とうとう打ち解けることがありませんでした――
「年の暮れがたには、かからぬ所だに、空のけしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降りつむ雪に、うちながめつつ明かしくらし給ふ、心地、尽きせず夢のやうなり。宮よりも御誦経など、こちたきまでとぶらひきこえ給ふ」
――年の暮れともなりますと、このような山里でなくても、あたりの様子がどことなく寂しげですのに、ましてや物思いがちに眺め暮していらっしゃる薫のお心は、尽きせぬ夢に漂っていらっしゃるようです。匂宮からも読経のお布施など仰山なほどの御弔問があります――
薫は、
「かくてのみにや、新しき年さへ歎きすぐさむ、ここかしこにも、おぼつかなくて閉じこもり給へることをきこえ給へば、今はとて帰り給はむ心地も、たとへむ方なし。」
――(お心の中で)このままこうして新年までも歎き通せようか…と思っていらっしゃいます。あちらこちらからも、薫が音沙汰なく宇治に籠っていらっしゃることをご心配のようで、今はもう都へ帰ることにお心を決められました。しかしまた、後ろ髪を引かれる思いでもいらっしゃいます――
薫がこうして御滞在の月日が長かったので、人の気配も多く頼りがいもありましたが、京へお帰りになっては、この山荘もどんなにか寂しくなるであろうと、侍女たちは大君がお亡くなりになった際の目前の悲しかった騒ぎ以上に、しんと静まりかえっている今がひどく悲しくて、
「時々をりふし、をかしやかなる程にきこえかはし給ひし年頃よりも、かくのどやかに過ぐし給へる、日頃の御ありさまけはひのなつかしくなさけ深う、はかなき事にもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今はかぎりに見たてまつりさしつること」
――薫の君がその時々何かの折々に、大君と趣き深い御文を取り交わされたあの頃よりも、こうしてのんびりとお過ごしになった作今のお暮しぶりの方が、侍女たちには懐かしく、ちょっとした風流なことにも、また暮らし向きの面にも、濃やかなお心遣いをなさるお優しいお人柄を思いますと、もうこれきりお見上げ申すことが出来なくなるとは…――
と、侍女たちは誰も誰も涙にむせぶのでした。
◆をかしやかなる=をかしやか=いかにも趣きがあるさま。風流めいているさま。
◆見たてまつりさしつること=見奉り・さし・つる・こと
◆さし(さす)=尊敬の補助動詞「給ふ」「おはします」「まします」、尊敬の助動詞「らる」などとともに用いて、尊敬の意をさらに強める。最高敬語。…になられる。…なされる。
では3/31に。
四十六帖 【総角(あげまき)の巻】 その(94)
「かくつれなきものから、内裏わたりにもきこしめして、いと悪しかるべきにおぼしわびて、今日は帰らせ給ひぬ。おろかならず言の葉をつくし給へど、つれなきは苦しきものを、と、一節をおぼし知らせまほしくて、心解けずなりぬ」
――中の君はこのように情けなく、打ち解けるそぶりもお見せになりませんが、といって、いつまでもこちらに泊まって居る訳にもきかず、御所でも事の次第をお耳になさって、きついお咎めもあろうかと思いあぐねられて、匂宮は今日のところはお帰りになることにしました。お別れに際してもう一度、中の君に対して並々ならぬ思いをお言葉を尽くして口説かれましたが、中の君からは、薄情なお仕打ちがどんなに辛く苦しいものか、この一点を思い知らせて差し上げたくて、とうとう打ち解けることがありませんでした――
「年の暮れがたには、かからぬ所だに、空のけしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降りつむ雪に、うちながめつつ明かしくらし給ふ、心地、尽きせず夢のやうなり。宮よりも御誦経など、こちたきまでとぶらひきこえ給ふ」
――年の暮れともなりますと、このような山里でなくても、あたりの様子がどことなく寂しげですのに、ましてや物思いがちに眺め暮していらっしゃる薫のお心は、尽きせぬ夢に漂っていらっしゃるようです。匂宮からも読経のお布施など仰山なほどの御弔問があります――
薫は、
「かくてのみにや、新しき年さへ歎きすぐさむ、ここかしこにも、おぼつかなくて閉じこもり給へることをきこえ給へば、今はとて帰り給はむ心地も、たとへむ方なし。」
――(お心の中で)このままこうして新年までも歎き通せようか…と思っていらっしゃいます。あちらこちらからも、薫が音沙汰なく宇治に籠っていらっしゃることをご心配のようで、今はもう都へ帰ることにお心を決められました。しかしまた、後ろ髪を引かれる思いでもいらっしゃいます――
薫がこうして御滞在の月日が長かったので、人の気配も多く頼りがいもありましたが、京へお帰りになっては、この山荘もどんなにか寂しくなるであろうと、侍女たちは大君がお亡くなりになった際の目前の悲しかった騒ぎ以上に、しんと静まりかえっている今がひどく悲しくて、
「時々をりふし、をかしやかなる程にきこえかはし給ひし年頃よりも、かくのどやかに過ぐし給へる、日頃の御ありさまけはひのなつかしくなさけ深う、はかなき事にもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今はかぎりに見たてまつりさしつること」
――薫の君がその時々何かの折々に、大君と趣き深い御文を取り交わされたあの頃よりも、こうしてのんびりとお過ごしになった作今のお暮しぶりの方が、侍女たちには懐かしく、ちょっとした風流なことにも、また暮らし向きの面にも、濃やかなお心遣いをなさるお優しいお人柄を思いますと、もうこれきりお見上げ申すことが出来なくなるとは…――
と、侍女たちは誰も誰も涙にむせぶのでした。
◆をかしやかなる=をかしやか=いかにも趣きがあるさま。風流めいているさま。
◆見たてまつりさしつること=見奉り・さし・つる・こと
◆さし(さす)=尊敬の補助動詞「給ふ」「おはします」「まします」、尊敬の助動詞「らる」などとともに用いて、尊敬の意をさらに強める。最高敬語。…になられる。…なされる。
では3/31に。