010.5/30 750回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(11)
この阿闇梨は、冷泉院にも親しく伺候して、お経などもお教え申し上げる人であります。京に出た折に院に参上して、いつものように院が経文などをご覧になり、いろいろご質問がありました折に、阿闇梨は、
「八の宮の、いとかしこく、内教の御才さとり深くものし給ひけるかな。さるべきにて生まれ給へる人にやものし給ふらむ。心深く思ひすまし給へる程、まことの聖の掟になむ見え給ふ」
――八の宮はたいそう御聡明で、仏典のご学問に精通しておいででございます。前世から仏教に御縁があってお生まれになったお方なのでもございましょうか。仏道に深く思いを潜めていらっしゃるご様子は、真の聖僧のお心構えかとお見受け申し上げます――
と申し上げます。冷泉院は、
「いまだ容貌はかへ給はずや。俗聖とか、この若き人々の付けたなる、あはれなることなり」
――まだ僧形(そうぎょう)にはなっていらっしゃらないのか。俗聖(ぞくひじり)などと、ここの若い者たちが名づけているそうだが、御殊勝なことだな――
と仰せになります。
宰相の中将(薫)も、冷泉院の御前に控えて聞いておりました。薫はお心の中で、
「われこそ、世の中をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど人に目とどめるるるばかりはつとめず、口惜しくて過ぐし来れ」
――私こそ、この世を実に面白くなく思い知りながら、勤行なども人目に立つほどはかばかしく行いもせず、いたずらに月日をやり過ごしてきていることよ――
と、人知れず思いつつ、
「俗ながら聖にはり給ふ心の掟やいかに」
――俗体のまま聖になられるお心構えというものは、一体どのようなものであろうか――
と、耳を傾けて阿闇梨のお話を聞いていらっしゃいます。
◆内教(ないきょう)=内教は内典ともいい、外典(儒教)に対して仏典をいう。
◆俗聖(ぞくひじり)=出家・剃髪をせずに、俗人の姿のままで仏道修行をする人。有髪の僧。
ではまた。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(11)
この阿闇梨は、冷泉院にも親しく伺候して、お経などもお教え申し上げる人であります。京に出た折に院に参上して、いつものように院が経文などをご覧になり、いろいろご質問がありました折に、阿闇梨は、
「八の宮の、いとかしこく、内教の御才さとり深くものし給ひけるかな。さるべきにて生まれ給へる人にやものし給ふらむ。心深く思ひすまし給へる程、まことの聖の掟になむ見え給ふ」
――八の宮はたいそう御聡明で、仏典のご学問に精通しておいででございます。前世から仏教に御縁があってお生まれになったお方なのでもございましょうか。仏道に深く思いを潜めていらっしゃるご様子は、真の聖僧のお心構えかとお見受け申し上げます――
と申し上げます。冷泉院は、
「いまだ容貌はかへ給はずや。俗聖とか、この若き人々の付けたなる、あはれなることなり」
――まだ僧形(そうぎょう)にはなっていらっしゃらないのか。俗聖(ぞくひじり)などと、ここの若い者たちが名づけているそうだが、御殊勝なことだな――
と仰せになります。
宰相の中将(薫)も、冷泉院の御前に控えて聞いておりました。薫はお心の中で、
「われこそ、世の中をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど人に目とどめるるるばかりはつとめず、口惜しくて過ぐし来れ」
――私こそ、この世を実に面白くなく思い知りながら、勤行なども人目に立つほどはかばかしく行いもせず、いたずらに月日をやり過ごしてきていることよ――
と、人知れず思いつつ、
「俗ながら聖にはり給ふ心の掟やいかに」
――俗体のまま聖になられるお心構えというものは、一体どのようなものであろうか――
と、耳を傾けて阿闇梨のお話を聞いていらっしゃいます。
◆内教(ないきょう)=内教は内典ともいい、外典(儒教)に対して仏典をいう。
◆俗聖(ぞくひじり)=出家・剃髪をせずに、俗人の姿のままで仏道修行をする人。有髪の僧。
ではまた。