2010.4/11 703回
四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(8)
確かにこの薫という方は、前世のご宿縁でしょうか、唯人ではなく、仏が仮に姿をお現わしになったかと思われるところもあるとの評判で、
「顔容貌も、そこはかと、何処なむすぐれたる、あな清ら、と見ゆるところもなきが、ただいとなまめかしうはづかしげに、心のおく多かりげなるけはひの、人に似ぬなりけり」
――お顔かたちは、どこがどう優れていらっしゃる、まあお美しい、と取り立てて申すほどではありませんが、ただ、まことに優雅で立派で、深みのありそうなお人柄が、ほかの人とはまるで違うのでした――
そのうえ、
「香のかうばしさぞ、この世のにほひならずあやしきまで、うちふるまひ給へるあたり、遠く隔たる程の追い風も、まことに百歩の外も薫りぬべき心地しける」
――薫の体臭の香り高さは、この世のものとも思われず、不思議なほど立ち居振る舞いにつれて、その辺りはもちろんのこと、遠く離れたところに風でおくられる匂いでも、文字通り百歩(ひゃくぶ)の外までも薫るにちがいない感じがなさる――
このように、薫(中将の君)には、あやしく人の心をそそらずにはおかぬ匂いがなじんでいられますのを、兵部卿の宮(匂宮)は、他の何事よりもこのことには負けたくない気になられて、
「それはわざとよろづのすぐれたるうつしをしめ給ひ、朝夕のことわざに合せいとなみ、御前の前栽にも(……)わざとめきて、香にめづる思ひをなむ、立てて好ましうおはしける」
――特別に様々のすぐれた匂いをご衣裳にたきしめられ、そのことを明け暮れの仕事として、薫物(たきもの)の調合に熱中なさっていらっしゃる。御庭の前栽にも、梅、女郎花、萩、菊、藤袴、われもこう、などを植えられて、殊更らしいなさり方で、香を愛でることにたいそう執着していらっしゃるのでした――
「かかる程に、少しなよびやはらぎて、好いたる方にひかれ給へり、と、世の人は思ひ聞こえたり。昔の源氏は、すべて、かく立てて、その事と、やうかはり、しみ給へる方ぞなかりしかし」
――(匂宮の)こういうところが、少し軟弱にすぎて、色好みに傾いておられると、世間ではお噂申し上げているようです。昔、源氏という方は、何事もこういう風に一つのことに凝って、それに熱中なさるような風変わりなことはなさらぬ方でしたが――
◆百歩(ひゃくぶ)=遠い距離。名香に百歩香というのがある。
◆写真:藤袴(ふじばかま) 風俗博物館
ではまた。
四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(8)
確かにこの薫という方は、前世のご宿縁でしょうか、唯人ではなく、仏が仮に姿をお現わしになったかと思われるところもあるとの評判で、
「顔容貌も、そこはかと、何処なむすぐれたる、あな清ら、と見ゆるところもなきが、ただいとなまめかしうはづかしげに、心のおく多かりげなるけはひの、人に似ぬなりけり」
――お顔かたちは、どこがどう優れていらっしゃる、まあお美しい、と取り立てて申すほどではありませんが、ただ、まことに優雅で立派で、深みのありそうなお人柄が、ほかの人とはまるで違うのでした――
そのうえ、
「香のかうばしさぞ、この世のにほひならずあやしきまで、うちふるまひ給へるあたり、遠く隔たる程の追い風も、まことに百歩の外も薫りぬべき心地しける」
――薫の体臭の香り高さは、この世のものとも思われず、不思議なほど立ち居振る舞いにつれて、その辺りはもちろんのこと、遠く離れたところに風でおくられる匂いでも、文字通り百歩(ひゃくぶ)の外までも薫るにちがいない感じがなさる――
このように、薫(中将の君)には、あやしく人の心をそそらずにはおかぬ匂いがなじんでいられますのを、兵部卿の宮(匂宮)は、他の何事よりもこのことには負けたくない気になられて、
「それはわざとよろづのすぐれたるうつしをしめ給ひ、朝夕のことわざに合せいとなみ、御前の前栽にも(……)わざとめきて、香にめづる思ひをなむ、立てて好ましうおはしける」
――特別に様々のすぐれた匂いをご衣裳にたきしめられ、そのことを明け暮れの仕事として、薫物(たきもの)の調合に熱中なさっていらっしゃる。御庭の前栽にも、梅、女郎花、萩、菊、藤袴、われもこう、などを植えられて、殊更らしいなさり方で、香を愛でることにたいそう執着していらっしゃるのでした――
「かかる程に、少しなよびやはらぎて、好いたる方にひかれ給へり、と、世の人は思ひ聞こえたり。昔の源氏は、すべて、かく立てて、その事と、やうかはり、しみ給へる方ぞなかりしかし」
――(匂宮の)こういうところが、少し軟弱にすぎて、色好みに傾いておられると、世間ではお噂申し上げているようです。昔、源氏という方は、何事もこういう風に一つのことに凝って、それに熱中なさるような風変わりなことはなさらぬ方でしたが――
◆百歩(ひゃくぶ)=遠い距離。名香に百歩香というのがある。
◆写真:藤袴(ふじばかま) 風俗博物館
ではまた。