2010.4/3 695回
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(20)
「御佛名も、今年ばかりにこそは、と思せばにや、常よりも異に、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞き給はむことかたはらいたし」
――年末の御佛名も、源氏は、今年だけのこととお思いになってのことでしょうか、例年よりも格別に錫杖(さくじょう・しゃくじょう)の声々を身に沁みて、あはれにお聞きになっています。が、僧たちが源氏の長命を祈願していますのを、実際仏様が聞かれても何とお思いかと、源氏は恥ずかしくてならない――
雪がしめやかに降ってきて積もりはじめたようです。ほころび始めた梅の花が、ところどころ雪を頂いている様子がひどくいじらしい。以前から親しくしているお知り合いの御導師に、御法事後の杯をお差しにながら、
(源氏の歌)「春までのいのちも知らず雪のうちにいろづく梅をけふかざしてむ」
――春まで命があるかどうか分かりませんから、雪中に咲く梅の花を挿頭(かざし)としましょう――
(御導師の返歌)「千世の春見るべき花といのりおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる」
――幾千代かけて春に逢える花のごとくに、貴方様のご長寿をずっと祈願して参りまして、私は雪と共に古びてしまいました――
「その日ぞ出でゐ給へる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、あり難くめでたく見え給ふを、この旧りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり」
――(源氏は)この日はじめて人前に出られたのでした。その御容姿は、昔、光源氏と謳われた時よりも更に輝いて、いっそう美しくお見えになりますのを、この年老いた僧は分けもなく流れる涙をとどめえないのでした――
この年の暮れを、六条院に留まられている匂宮(六歳)は子供心に寂しく思われるのでしょうか、
「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせむ」
――鬼やらいをするのに、高い音をたてなくては。どんなことをさせようか――
と、無邪気に走り回っていらっしゃる。この可愛いお姿も、もう見る事ができなくなるのだと、源氏は何かにつけて忍び難くお思いになって、
(歌)「もの思ふと過ぐる月日もしらぬまに年もわが世もけふやつきぬる」
――もの思いに月日がたつのも知らないでいるうちに、年も暮れてしまい、わたしの命もこれで終わるのだろうか――
「朔日の程のこと、常より異なるべく、と掟てさせ給ふ。親王たち大臣の御引出物、品々の禄どもなど、二なう思し設けでとぞ」
――朔日(ついたち)の頃のこと、すなわち元日頃のご準備として、例年よりは格別にとお命じになって、親王たちや大臣への御引出物、それぞれの人々への禄など、比べようもないほど立派にご用意なさっておいでになるとか――
◆御佛名(おぶつみょう)=佛名会(ぶつみょうえ)とも。平安時代、宮中で行われた行事の一つ。毎年陰暦十二月十九日から三日間、清涼殿で、僧に、過去・現在・未来の三世の一万三千の佛名を唱えさせ、一年中の罪を滅し、仏の加護を願う法会。ここでは大貴族・源氏の六条院でも行っている。
◆錫杖(さくじょう・しゃくじょう)=僧や修験者が行脚のときに持つ杖。頭部を錫(すず)で作り、そこに数個の輪がついている。突くと金具が鳴る。
◆儺(な)やらはむに=追儺(ついな)の行事。疫病や災難を追い払うため、大晦日に宮中で行われた鬼を追う儀式。後、寺社・民間でも行われた。室町時代以降、民間で節分の夜、煎った豆をまいて鬼を払う、豆まきとなった。
写真:現代の太山寺の追儺式・鬼はらい修正会
◆写真:梅に時ならぬ雪の一片
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 おわり。
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(20)
「御佛名も、今年ばかりにこそは、と思せばにや、常よりも異に、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞き給はむことかたはらいたし」
――年末の御佛名も、源氏は、今年だけのこととお思いになってのことでしょうか、例年よりも格別に錫杖(さくじょう・しゃくじょう)の声々を身に沁みて、あはれにお聞きになっています。が、僧たちが源氏の長命を祈願していますのを、実際仏様が聞かれても何とお思いかと、源氏は恥ずかしくてならない――
雪がしめやかに降ってきて積もりはじめたようです。ほころび始めた梅の花が、ところどころ雪を頂いている様子がひどくいじらしい。以前から親しくしているお知り合いの御導師に、御法事後の杯をお差しにながら、
(源氏の歌)「春までのいのちも知らず雪のうちにいろづく梅をけふかざしてむ」
――春まで命があるかどうか分かりませんから、雪中に咲く梅の花を挿頭(かざし)としましょう――
(御導師の返歌)「千世の春見るべき花といのりおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる」
――幾千代かけて春に逢える花のごとくに、貴方様のご長寿をずっと祈願して参りまして、私は雪と共に古びてしまいました――
「その日ぞ出でゐ給へる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、あり難くめでたく見え給ふを、この旧りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり」
――(源氏は)この日はじめて人前に出られたのでした。その御容姿は、昔、光源氏と謳われた時よりも更に輝いて、いっそう美しくお見えになりますのを、この年老いた僧は分けもなく流れる涙をとどめえないのでした――
この年の暮れを、六条院に留まられている匂宮(六歳)は子供心に寂しく思われるのでしょうか、
「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせむ」
――鬼やらいをするのに、高い音をたてなくては。どんなことをさせようか――
と、無邪気に走り回っていらっしゃる。この可愛いお姿も、もう見る事ができなくなるのだと、源氏は何かにつけて忍び難くお思いになって、
(歌)「もの思ふと過ぐる月日もしらぬまに年もわが世もけふやつきぬる」
――もの思いに月日がたつのも知らないでいるうちに、年も暮れてしまい、わたしの命もこれで終わるのだろうか――
「朔日の程のこと、常より異なるべく、と掟てさせ給ふ。親王たち大臣の御引出物、品々の禄どもなど、二なう思し設けでとぞ」
――朔日(ついたち)の頃のこと、すなわち元日頃のご準備として、例年よりは格別にとお命じになって、親王たちや大臣への御引出物、それぞれの人々への禄など、比べようもないほど立派にご用意なさっておいでになるとか――
◆御佛名(おぶつみょう)=佛名会(ぶつみょうえ)とも。平安時代、宮中で行われた行事の一つ。毎年陰暦十二月十九日から三日間、清涼殿で、僧に、過去・現在・未来の三世の一万三千の佛名を唱えさせ、一年中の罪を滅し、仏の加護を願う法会。ここでは大貴族・源氏の六条院でも行っている。
◆錫杖(さくじょう・しゃくじょう)=僧や修験者が行脚のときに持つ杖。頭部を錫(すず)で作り、そこに数個の輪がついている。突くと金具が鳴る。
◆儺(な)やらはむに=追儺(ついな)の行事。疫病や災難を追い払うため、大晦日に宮中で行われた鬼を追う儀式。後、寺社・民間でも行われた。室町時代以降、民間で節分の夜、煎った豆をまいて鬼を払う、豆まきとなった。
写真:現代の太山寺の追儺式・鬼はらい修正会
◆写真:梅に時ならぬ雪の一片
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 おわり。