落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

名もなきアフリカの地で

2007年08月14日 | book
『ナイロビの蜂』 ジョン・ル・カレ著 加賀山卓朗訳
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映画『ナイロビの蜂』の原作本。
ここんとこアカデミー賞の定番と化している白人inアフリカ社会派映画のはしりみたいな作品だったけど、ぐりはまあまあ嫌いじゃなかったです。話はベタだったけど、テーマはすごくわかりやすいし。『ブラッド・ダイヤモンド』もそうだけど、社会派ドラマを娯楽映画としてつくる手法はいいと思う。こういうテーマはできるだけたくさんの人にみてもらうことが大事だから、社会派を気取ったところで一部の観客に壁をつくってしまっては意味がないのだ。それならば『ダーウィンの悪夢』のように正攻法でドキュメンタリーにした方がよほど説得力がある。

『ナイロビ〜』でも『ブラッド〜』でも『ダーウィン〜』でも、アフリカの貧困と腐敗と混乱を世界中が食い物にしている現状が生々しく描かれる。
『ブラッド〜』ではダイヤモンド、『ダーウィン〜』では白身魚がその主人公だったが、『ナイロビ〜』ではクスリがそれにあたる。
著者はこの小説はフィクションであり実在の人物も団体も企業も商品もまったく関係ないと明言しているが、読めばこの物語が綿密な取材を元に書かれたセミ・ドキュメンタリーでもあることが誰にでもわかる。実際にあった出来事が書かれてるわけではないかもしれない。でも少なくとも、実際にあってもおかしくないことが書かれている。
アフリカが世界のクスリのゴミ箱だということはみんなが知ってる、とある登場人物がいう。消費期限が残り少なくなったクスリや、バージョンアップされて型落ちになったクスリ、国の認可が下りなくて取引が停止されたクスリが、世界中からアフリカに運ばれ売られている。製薬会社にとっては在庫しておけば経費をくうだけの無価値なゴミを、アフリカの貧しい人々はなけなしのお金で買わされる。
一方で世界中のエイズ患者の8割が住むというアフリカで、適切な投薬治療を受けているのはそのうちわずか1割にも満たない。エイズの治療薬は高額なため、健康保険制度が不十分なアフリカの患者にはとても手は届かない。クスリは一旦商品化されれば大抵は数年で開発費は償却される。その後の売上げはまる儲けである。それなのに、そのクスリさえ飲めば助かる人たちがばたばたと死んでいく。

アフリカはありとあらゆる病気の宝庫だ。苛酷な自然環境、貧困、紛争、腐敗が、人々を冒し、蝕んでいく。アフリカにしか存在しない感染症もある。いってみれば製薬会社にとってはいちばんおいしい市場でもある。放っておいてもクスリは売れる。認可をとりたければ役人やマスコミを買収すればよい。副作用があればにぎりつぶせばよい。ゴチャゴチャうるさいことをいうやつがいれば消せばよい。
おいしすぎる。全世界規模でマフィアまがいの陰謀が堂々と行われている、それがグローバリズムの影の現実だ。ひどい話だが、決して他人事ではない。
これだけひどい話なんだから、それはもう娯楽小説の題材としてはまさにうってつけである。取材はほんとうにほんとうに大変だったろうと思うけれど。
映画を観てから1年以上経っていて細かい部分はかなり忘れてたけど、読んでてそのまま映像を思いだしてもぜんぜん違和感はなかったです。端折った部分もあるけど基本は結構原作に忠実だったのだね。
主人公夫婦が美男美女で大金持ちだったり、ミステリーのお約束的な設定はミステリーを読みつけないぐりには多少引っかかりはしたけど、ひとりひとりの登場人物の造形がすごく丁寧でリアルなところはとても魅力的な小説でしたです。

暴走リンチ

2007年08月13日 | movie
『インランド・エンパイア』
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おもろかったよ。大満足。
けど長かった。3時間は長いよー。途中で微妙に眠くなったりもし。どこで終わるんだかもわからんし。
ぐりはべつにリンチファンではないけど、こーゆーわからん映画も結構好きです。つーか、映画観て「わかろう」とはしてないんだよね。いつも。わからんならわからんなりに、伝わってくる範囲内で楽しむ。わかりたければ後で調べる。
『インランド〜』もぶっちゃけぐりにはぜーんぜんわからない。公式HPにもストーリーの説明はあるけど、コレ読んでも意味はわからない。でもちゃんと、おもしろいのだ。

ジャンルでいえばホラーでもありコメディでもあるのだろう。
ローラ・ダーンも含め登場する女性たちは、それぞれに不安を抱え、現実を畏れ、抑圧された自分自身を恐れている。実際、生きていれば「こわい」「わからない」と感じることはたくさんある。どれだけ自信にみちた人でも、自分がどうなるのかわからなくて不安や恐怖を感じることはあるだろう。感じないとすればよほど鈍感か傲慢なのではないか。だからといってたとえ現実を投げ出すことができたとしても、そこにはまた別の現実が待っている。不安や恐怖は大なり小なりどこへでもついてくる。
この映画では、女性のそうした弱さを極端にデフォルメして映像に表現している。もうねえ、ホントに怖いのよー。映像が。グロいってほどではないんだけど、常にとんでもなくがぶり寄りなアングルとか、しょっちゅー微妙にフォーカスアウトしてたりヘンに曲がってたり意味なく不安定なカメラワークとか、画面みてるだけでこっちがすっごい不安を感じるわけ。思わせぶりなライティングとか音効も怖いよう。

まあそういううんちくはおいといても、これだけやりたい放題、好き邦題やられると、却って観てる方も開き直って世界に浸れる。
映画は娯楽であると同時に芸術なんだから、これくらい思いっきり自由でもいいんだよね。ここまで自由だとむしろ清々しいです。
天晴れなり。
音楽は例によってすっごいかっこよかったですー。



夏休みなのでホラーでも

2007年08月12日 | movie
『リング』
『らせん』
『リング2』
『リング0 バースデイ』
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ぐりは怪談は好きだが(最近は落語で怪談を聞くのがマイブーム)、ホラー映画ってあんまり観ない。決してキライではないんだけど、どーも入りこめないというか、入りこんで能動的に「怖がる」ことを楽しめないんだよね。結局怖がりだからかなあ。
この『リング』シリーズだと『リング』だけはビデオが出たばっかりのころに一度観てます。原作も読んだ。けど他のシリーズは観てなかったし、その後、邦画の一大ジャンルと化したモダンホラー系の映画もほとんどまったく観てないです。なんかいろいろありすぎて、どれ観りゃいーのかよーわからんって感じで。

『リング』はおもしろいよね。今みても古くささは感じないし、やっぱり低予算なりにディテールでめちゃめちゃ頑張って、恐怖を感じる人の心理をとことんまで追求してる。物語自体はとくに新鮮でもなんでもないし台本にもぎくしゃくしたとこはいっぱいあるけど、「怖さ」という感情がいったいどこから来るのか、というものすごく感覚的な末端部分での表現にはほんとうに徹底して凝ってて、「恐怖」テクという面では真面目に賞賛に値すると思う。

原作はぐりは正直ぜんぜんおもろなかったです。え?これが?ベストセラー?なんで?みたいな。
他のシリーズもそうだけど、「恐怖」って感覚・感情だから、理屈で説明しようとしちゃうとどーしても観てる方はさめてしまう。「そーなの?それでそのどこがそんな怖いの?」となってしまう。原作も説明系でしょ。
シリーズだからオリジナルで使った恐怖表現を踏襲しようとしてるシーンもそれぞれあるけど、もう完全に「型」にはまっちゃってて半ばギャグになっちゃってるのがまたイタイ。同じ中田秀夫監督の『2』ですらそうなんだから、別の監督の2本に至っては何をかいわんやである。セリフでどれだけしつこく恐怖を説明されても、恐怖って強制されて感じるものじゃないんだってばさ。

とはいえ、中田監督作でも他に『仄暗い水の底から』と『ガラスの脳』は観たことあるけど、どっちも激しく「????」だったなー。『2』もそーだけど、頑張ってるのはよくわかるんだけどもうひとつ響いてこないっちゅーかねー。空回りなのよ。今公開してる『怪談』っておもろいのかな?
頑張ってるといえば『2』の深田恭子と『0』の仲間由紀恵はめちゃめちゃ熱演だったね。やってて楽しそうに思えてくるくらいハマッてました。そして真田広之。今となってはハリウッドに進出してめちゃめちゃ大物になっちゃってますけど、こんな時代もあったのね~とついしみじみしてしまいましたですー。


23歳の従軍カメラマン

2007年08月11日 | book
『トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』 ジョー・オダネル著 平岡豊子訳
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1945年9月~1946年3月、終戦直後の九州~西日本を従軍カメラマンとして撮影しながら、個人的なスナップも撮りためていた若い米兵がいた。
19歳で海兵隊に志願したが新聞社の暗室係という前職もあって実戦には就かずに写真技術の訓練を受け、戦後になって敵地だった日本で記録撮影の任務を命じられた。
当時23歳、海兵隊といえどタフでマッチョなバリバリの“マリーン”ではない、いってみればごくふつうの若者だったオダネル氏は、破壊しつくされ究極の貧困に苦しむ敗戦国日本の現実を撮った写真を、帰国後人知れずトランクにしまいこんで忘れることにした。
それほど、彼の見た日本は悲惨だった。悲惨なだけではない。そこまでこの国を壊したのが自分たちアメリカ人だという罪の呵責に堪えられなかったのだ。

こないだ『ヒロシマナガサキ』を観た後で、1995年にスミソニアン博物館で予定されていた写真展が在郷軍人の圧力で中止になったことを思い出した。
中止になったのは、既にアメリカ各地で開催されていたこのオダネル氏の写真展だった。
オダネル氏の写真はただの記録写真ではない。彼が優れた報道写真家であることは技術的にも疑いの余地はないが、それ以上に、写真の一枚一枚から、被写体に対峙した彼の心の震えが、実に生々しく伝わってくる。一般に報道写真家は被写体に対して感情をもたず常に冷静でいることが求められるが、まだ若く写真家としても駆け出しだった当時のオダネル氏が撮ったスナップには、そうしたセオリーは踏襲されていなかったのだろう。
そもそも彼は、故郷の家族への土産・記念品として日本の写真をもって帰るつもりでカメラを買ったのだ。佐世保のカメラ店で、タバコと交換で。

この写真集には、1点ずつ詳細なキャプションとともにオダネル氏のインタビューも添えられている。
中に非常に印象的な一文があったので引用する。広島で出会った日系アメリカ人の老人の言葉だ。

「息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本のありさまをしっかりと見ておくのです。国にもどったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、アメリカの人々に語りつがなくてはいけません。写真も見せなさい。あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなかったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれといわれてもそれは無理です」

オダネル氏は45年後、この老人の言葉通り、写真を携えて反核運動に参加することになるが、この言葉は同時に、世界中の多くの戦争被害者の言葉ともいえるのではないかとぐりは思う。
語りつがねばならない。許すことはできても、忘れることはできない。

終戦直後の日本を通訳軍人が記録した書簡集『昨日の戦地から 米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア』もすごくいい本だけど、この写真集はそのビジュアル版みたいなものかもしれない。著者の年齢も近いし時期もほぼぴったり重なっている。アプローチも似ている。
そこに登場する日本人たちの姿には、やはり日本人からみた日本人像とは違った新鮮さがある。
空襲で妻を失いながら米兵をあたたかくもてなす市長。墜落した米軍機のパイロットを手厚く葬った農家の人々。事故に遭った海兵隊員を助けるために雨の中を走って知らせに来た日本人女性。
みんな、つい1ヶ月前まで鬼畜米英を叫んでいたはずの日本人だ。彼らが当時何をどう感じどう考えていたのか、今となってはもう知る術はない。ごく都合よく解釈すれば、彼らにとっても憎いのは戦争であって敵国の人間ではなかった、ということもできるかもしれない。
でも、もしほんとうにそうなら、ほんとうに日本人がそんな国民なら、どうして戦争になんかなったのだろう。
わからない。

偶然だがオダネル氏は昨日テネシー州ナッシュビルで亡くなった(記事)。
現在、長崎県美術館ではオダネル氏が撮影した原爆投下2ヵ月後の長崎の爆心地の写真が展示されている。15日まで。

ケニアのユダヤ人

2007年08月07日 | book
『名もなきアフリカの地で』 シュテファニー・ツワイク著 シドラ房子訳
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カロリーヌ・リンクの映画『名もなきアフリカの地で』の原作本。つーても映画を見たのはもう4年前なので、細かいところとかはあんまり覚えてないです。
舞台は1938〜47年のケニア。1932年、反ユダヤ主義を唱えるナチスがドイツ政権を握り、国内のユダヤ人は身の危険を感じて次々と国外へ亡命を始めた。亡命先はヨーロッパやアメリカ、中にはアジアやアフリカを目指した人々もいた。当時、東南アジアやアフリカの多くの国はヨーロッパ列強が支配していたからだ。
この物語は実際に少女時代をケニアで暮した著者の自伝的小説。祖国を追われた一家のよるべない戦時下生活を、みずみずしく叙情的に綴った美しい物語だ。

映画ではヒロインである少女レギーナ(レア・クルカ/カロリーネ・エケルツ)の目線に絞った描かれ方をしてたように記憶してるけど、原作は主観がごく柔軟に人から人へとかろやかにうつっていく文体になっている。冒頭は先にケニアに渡った父ヴァルターの手紙から始まり、場面によって現地人の使用人オーボワ、母イエッテル、娘レギーナ、と語り手がころころと変わっていく。
世界観としては基本的には著者自身の投影であるレギーナからみて構成されているのだが、語り手を固定しないことで、彼ら「亡命者」の置かれた環境の複雑さが、感覚的に非常にわかりやすくなっている。
とにかく目的ありきで常に冷静でありたい父、現状維持をなにより尊ぶ母、第二の故郷であるアフリカの地を愛してやまない娘、すべてを深く理解しているオーボワ。彼らは家族だが、それぞれにものの見方や受けとめ方がまったく違う。どれが正しくてどれが間違ってるなんて正解はない。それぞれがそれぞれの立場で感じ、思い、考えた結果が自然と違うのだ。どんなに愛しあった夫婦でも、血を分けた親子でも、人間はそれぞれ違った心をもっている。だからこそ互いに支えあい、尊重しあうことが必要なのだ。

言語の壁もまた亡命者一家の悲哀の象徴である。
父母はドイツ出身だから当然ドイツ語を話すが、年端もいかないうちにケニアに来た娘は現地のスワヒリ語やジャルオ語を流暢にあやつり、寄宿学校では英語で授業を受けている(ケニアは当時イギリス領)。彼女が成長するに従って親子の会話は英語交じりになっていく。
家庭内だけでなく、一家の周囲のヨーロッパ人も多くはイギリス出身で英語しか話さないし、亡命者もヨーロッパ各国から来ているので会話は不自由になる。いうまでもないが、見知らぬ異国で言葉が通じないのはほんとうに心細いものである。その心細さが具体的に鮮明に描かれている。
また、オーボワを中心とする現地人の価値観もとてもわかりやすく表現されている。レギーナ一家を敬い、大切に仕えてくれるオーボワたちだが、ただただ無心に忠節をつくしているわけではない。彼らの差しだす愛には彼らなりのプライドがちゃんとある。著者は彼らの考え方をどこまでも尊重しているが、さりとてヘンにわかったような言い方もしていない。そこにものすごく説得力を感じました。

時代背景は戦時下だが、直接的な戦闘シーンもでてこないし作中で死ぬ人物もいない。ドイツに残った縁者の消息が手紙などで知らされるだけ。
でも、戦地から遥か遠く離れたケニアにいた人々も当然戦争に苦しめられていた。戦争を知らない我々は、つい戦争といえば歴史の教科書の中の出来事、年表を輪切りにした過去の時代に、地図に色づけした地域で戦闘があって、グラフに数字で表わされた人間が死んだ、そんなことが「戦争」だと思っている。
けど事実はもちろんそうじゃない。そんなワケがない。戦争は起こるべくして引き起こされる。一旦戦争が起きたら、どこへ逃げても当事者は苦しみつづける。ドイツが降伏したっていきなり平和になるわけもない。祖国を追われ遠い異国に暮している人々には、また新たな闘争が迫ってくる。

血や涙や別れだけが戦争じゃない。共感や理解だけが愛でもない。
当り前だけど、なかなかそうは簡単にいえないことを、とてもあたたかくやさしく描いた小説。ホロコーストを他の文学作品とはまったく別の側面から描いているという意味でも、一読の価値はある作品です。
ところで映画では、異郷での孤立した暮らしの中で夫婦の心が離れていき、母がついに浮気をしてしまうというエピソードが描かれていたのだが、なんと原作にはそのようなくだりはいっさいない。映画オリジナルだったのだ。完全なフィクションならいざしらず、原作は著者の自伝でもあるので考えてみたら大胆な翻案である。他にも映画と原作でまったく違う部分がかなりあり、原作といってもストーリーをただなぞっただけの映画化とは違ってたみたいです。