落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ティーチインまつり

2005年10月27日 | movie
『私たち』

某アジア映画をぶっちしてちょうどその時間から上映開始だった。最初からコレ観りゃよかったよ〜。おもしろかった。
ティーチインで馬儷文(マー・リーウェン)監督が「98%が私が実際に経験したお話で、後から創作した要素はないに等しい」といっていたけど、まさにもうリアルのひとこと。そしてまったくムダがない。登場人物も少ないしロケ場所はほとんどボロボロの四合院の中だけ、台詞も最少限しかない。それなのにストーリー展開がとてもリズミカルでエモーショナルで、どこといって概念的なところ、装飾的なところがまるでない。非常にストイックなつくりの映画でした。ぐりはコレかなり好きですね。いい映画だと思う。
ぐりがとくにお気に入りだったのはヒロイン小馬(宮哲コン・チェ)が住む四合院のお向かいのおばあさん。小馬の大家のおばあさんといいコンビで、ふたりの会話が漫才のボケとツッコミみたいでおかしい。あとこのヒトのファッションがスゴイの(笑)。ヘビメタっぽいパンクなプリントの長袖Tシャツとか、ピンクの水玉のショートパンツとか。しかも美脚(爆)。
ただこの上映のとき、すぐ後ろに中国系の中年女性がいて連れとしょっちゅう大きな声でぶつぶつ喋ってて閉口しました。何度か目で注意したのにまるで通じず。なのにティーチインは聞かずに退場。上映中そんなに喋ることあんなら直接監督にいやいいのに(怒)。

おんな道

2005年10月26日 | movie
『恋愛は狂気の沙汰だ』

ぐりは韓流ブームより前からたま〜に韓国映画をみてましたが、コレはちょっとその昔を思い出させるような、ある種トラディショナルな印象を受ける映画でした。
カメラワークや照明がシンプルでありつつ上品で、画面構成がとても綺麗にまとまっている。編集がすごく丁寧。台詞もよく練られている。つまりたいへん完成度が高い映画です。しかし内容はノスタルジック。カラオケのシーンがいっぱいあって、演歌ばっかり流れるからかもしれない。
ノスタルジックといっても平和な子ども時代をイメージさせるような種類のノスタルジーではない。男運に恵まれない女性の転落と成長を淡々と描いた静かな映画、というのがファッショナブルなエンターテインメントがメインストリームになっている今の韓国映画とは逆行する傾向を感じさせるのだ。
ティーチインで監督も語っているように、全編ヒロイン全美善(チョン・ミソン)でずっぱり。出てないシーンなんか数えるほどしかない。んでその全美善がまたまっっっったく笑わない。たまぁ〜に頼りなさそうにうっすら唇を緩めるだけ。最初から最後まで全身から不幸オーラ噴出しまくってます。もうこの時点でこの映画‘韓流’じゃないでしょう。よしよし(?)。
ぐりの両親もいってたけど、昔の韓国の男の人は全然働かないでお酒ばっかり飲んで、家業も家事も子育てもぜんぶ奥さんにやらせてたそーです。たぶん今は違うと思うけど、たかが戦後半世紀余りでいきなり天地がひっくり返るほどに男女観が変化するとも考えにくい。だからこの映画に出てくるよーなろくでもない男や、苦労ばかりしている女、そしてそれを互いに大して不思議にも思わない男女関係は、実は韓国では今でもある面においては現実なのだろうと思う(質疑応答の雰囲気ではなんとなくそんな感じだったし)。
それにしてもこれほどシニカルな恋愛映画も珍しいかもしれない。決して明るい話ではないけど、おもしろかったです。ハイ。

おんな道

2005年10月26日 | movie
『非婚という名の家』

台湾でサウナを経営する妙齢のゲイたちの日常を描いたドキュメンタリー。
ビデオ撮影だしたぶんもともとはTV番組用に撮影されたものだと思う。テロップ(誤字誤植多数)での情報量が多くて読みきれなかったり、録音状態が極端に悪かったり画質がひどく劣化してたり、残念ながら映像作品としての完成度にはそれなりの問題を抱えてはいる。
それでもこれは間違いなく傑作です。単にぐりが不勉強なんだろうけど、これほどまでに「市井にごくふつうに生きている同性愛者」をストレートにとらえた映像を未だかつて見たことがなかったです。それはとりもなおさず撮影者(おそらく監督)と被取材者との強い信頼関係の賜物なのだろう。
この作品に登場するゲイたちは皆決して若くはないし、美しくもないし、とくに教養があったり才能や個性にめぐまれている訳でもない。ほんとにほんとにごくふつうの人たちだ。彼ら(彼女ら)が「ふつう」でないのは、ただその性指向だけ。
彼らは日本よりもさらに保守的な台湾で国からさえ差別され理不尽に虐げられていても、決して絶望したり自分を騙して楽をしようとはしない。それまでの人生でそんな現実逃避が何の意味もなさないことを既に学んでいるからだろうか。一生をかけて心から愛せる人と出会いたい、そしてパートナーには死ぬまで全身全霊をもって自分のすべてを捧げつくしたい、という愛情の深さはなるほどふつうではないかもしれない。そういう意味で彼女たちは確かに男よりも女よりも勇敢だ。その姿は誰がなんといおうとどんな宝石や芸術品よりも美しい。
当り前のことだが世の中は彼女たちに厳しい。さまざまな困難や苦痛がいくつもいくつも絶えることなく彼女たちを待ち受けている。それなのに、さもなんでもなさそうにちょっと困ったような穏やかなほほえみを浮かべて、そうした艱難辛苦を静かに語る彼女たち。もしかしたら彼女たちの強さはそんな環境の厳しさによるものなのかもしれない。
理屈はまったく抜きにしても、この作品は涙なしでは観られないです。すいません、ぐりめちゃ号泣してました。

内蒙古→テキサス→メキシコ→香港→長洲島

2005年10月25日 | movie
『Aサイド、Bサイド、シーサイド』

あー、若いっていいですねえ。イヤまじで。ほんとに。
この映画のテーマは「夏休み」。ぐりは暑いのが好きではないし、記憶にある夏休みといえば運動部の練習やら予備校の夏期講習やらバイトやら、とにかく地味な思い出しかないので、「夏休み」に対する思い入れのよーなものもきれいさっぱりない。
だからこの映画に描かれる夏休みにはさほどノスタルジーを感じない。それでもフィクションとしてはちゃんと楽しめました。てことはそれなりにクオリティが高いんだろうと思う。
Aサイドパートに登場する女子高生たちがすごくかわいい。とびっきりの美少女ってこともないけど、いかにものびのびと素直で健康そうで、一見中学生に見えてしまうくらい幼くて少女然とした彼女たち。まさかこれから大学生になったり社会人になったりするような年齢にはとても見えない、まだまだあどけない子どものような少女たちがはしゃげばはしゃぐほど、夏の終わりに彼女たちを待っている現実社会の重さが痛々しく思えてくる。この一点の曇りもないまぶしい笑顔は、彼女たちがオトナになり社会へ出ていくほどに色やかたちを微妙に変えていくだろう。だからこそその輝きがいっそうせつなく感じる。
シーサイドパートはちょっと退屈でしたねー。Aサイドパートに比べると微妙に冗長だったと思います。設定とか展開にもうひとつしまりがないというか。
両方のパートに出てくる子ネコちゃんがちょーかわいかったです。女子高生、夏休み、海、子ネコ、帰郷、幼馴染み。甘いです。酸っぱいです。まさにレモンのシャーベットみたいな、軽いデザートみたいな映画でした。

内蒙古→テキサス→メキシコ→香港→長洲島

2005年10月25日 | movie
『メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬』
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上映前に監督/主演のトミー・リー・ジョーンズ氏の舞台挨拶があり、その後監督も会場で一緒に上映を観ました。こういう映画祭って会場にゲストがいてもいなくても上映後は大体拍手が起きるんだけど、今回はエンドロールの最初に拍手、エンドロールが終わってまた拍手、ジョーンズ氏が退場するときはなんと観客全員でスタンディング・オべーション。ぐりは記憶にある限りナマでスタンディング・オべーションを経験したことはないし、それも自分で立って拍手したくなるほど感動するってこともまぁそれほどしょっちゅうあるもんじゃない。ですよね?
でもこの映画はまったく文字通り「拍手喝采」に相応しい傑作でした。感動したよ。てゆーかめっちゃ泣けた。
物語の舞台はテキサスとメキシコ。タイトル通り、メルキアデス・エストラーダという男が死んで、数奇な運命のもと3度埋葬される過程を描いている。ぐりはハリウッド映画には詳しくないんだけど、たぶんここまで説明の少ない映画はハリウッドでは珍しい方ではないだろうか。だから最初は人物の相関関係や前後する時制がなかなかつかみづらい。しかしストーリーそのものはすごくシンプルでストレートなので、わかってくればどんどん引きこまれる。
タイトルが「三度の埋葬」だから、死んだ男がメルキアデス・エストラーダという名前で、彼が3回埋められることは観客は先刻承知だ。しかも彼は最初の登場シーンでは既に半ば腐乱した死体になっている(後で生前のシーンも出てくる)。登場人物の運命は始めから開示されているのにここまで観客をひきつけて放さない原動力は、おそらく主人公ピート(T・L・ジョーンズ)のミステリアスなキャラクター設定によるものだろう。全体に説明の少ない映画だが、彼がどういう人間なのかという部分に関してはさらに一切それがないのだ。
この物語で語られているのはただ唯一、たったひとりの男の死の重さだ。人種に関わらず、当人の来歴や社会的地位に関わらず、死は死なのだ。どんな死も平等に重いのだ。言葉にすればごく当り前のことなのに、映画はそんな当り前のことさえ現代の人間は忘れかけてはいないか?と我々に鋭く問いかけている。ヘタをすればただ説教くさいだけの人権譚になってしまいそうな題材を、サスペンスタッチのロードムービーに仕上げたのはまさに正解だろう。
来年に劇場公開も決まっているそーだ。超オススメの映画です。