落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

知ってるつもり

2008年12月20日 | movie
『BOY A』

少年時代に罪を犯し、長い服役を終えて釈放されたエリック(アンドリュー・ガーフィールド)はジャックという新しい名前と架空の経歴を与えられ、保護監察官テリー(ピーター・ミュラン)の指導のもとで社会復帰への第一歩を歩みだす。
運送業の仕事も順調、恋人(ケイティ・ライオンズ)もできて順風満帆の青春を取り戻したジャックだが、周囲を欺いている罪悪感に苛まれ悪夢に苦しむようになっていく。

名作。
傑作です。
素晴しい。
素晴し過ぎる。
あのー。とりあえずすっごいシンプルな映画です。登場人物も人物関係も台詞も美術装飾も必要最少限。構成も単純。無駄な説明はいっさいなし。それなのにいいたいことはものすごくめいっぱい伝わる。超ストレート。
冒頭、主人公がジャックという新しい名前を自分につけるシーンから物語は始まる。観客には彼が過去に何をしたのかは知らされない。だが14年という刑期と、保釈直後には警察の護衛までつくという特異な状況から、それが単なる非行などと呼べるようなレベルの罪ではなかったことは容易に推察できる。
彼が下宿に引越し、就職し、仕事仲間と親しくなり恋をするのと同時進行で、服役前の少年時代のシーンがインサートされる。そのパートの展開はごくゆっくりしたもので、彼の身に何が起きたのかはやはりなかなかわからない。
何かをしたことは確かで、それが重大な犯罪だったことはわかる。それなのに観客はどうしても、彼に更生してほしい、幸せになってほしいと願わずにはいられない。

本来ならば犯罪者をとりまく第三者としてはあり得ない感情かもしれない。今の日本ではとくに、無意味なほどの感情論に支配された被害者意識という名の虚妄ばかりが商品化され、世論の偏りにひきずられて裁判の量刑すら年々重くなっていくというていたらくである。
しかし映画は、「ほんとうにわかる心の声」を実に丁寧に濃やかに再現している。現場でいったい何が起こったのかは結局のところ本人にしかわからない。それなのに、部数や視聴率を稼ぐために不確実な情報を垂れ流すマスコミに踊らされた人々は、まるで自分がそこでそれを見ていたかのように、犯罪者を悪魔だの鬼だの狂人だのときめつけ、罵り、貶める。そんな行為に目的なんかありはしない。ただそうしたいからそうするだけ。そうしたところで誰の何が報われるわけでもない。
でもほんとうにわかるのは、目の前で見て、触れている実像でしかない。人々はジャックを見て、彼に触れ、心を動かされる。なぜなら彼には未来があるからだ。悲しいことに被害者にはそれはない。なぜなら被害者はもうそこにはいないからだ。

現実はそこまで牧歌的なものではないだろう。
ジャックの更生も平坦な道程ではない。最終的には予想されるべきカタストロフが彼を襲う。残念ながら、遅かれ早かれそれは来るべきものなのだろう。誰にもそれから逃れる術はない。
それは現実かもしれない。しょうがないことかもしれない。しかしそれが現実かどうかを選ぶのはこの社会を生きているわれわれひとりひとりの手に委ねられているのであって、“社会の敵”たる犯罪者ではないのだろう。
腐ったリンゴを端から排除して踏みつぶし捨て去り続ける社会と、たとえ過去に何があろうとも赦し受け入れていく社会と、どちらを選びたいかという選択肢。
純粋に好きずきで選んでいいのかどうかまではぐりにはわからない。けどどっちが平和かと問われれば、後者の方が平和な世の中なんじゃないかと思う。
結局は平和がいちばん大切だと思うんだけど。

夢みる翼

2008年12月20日 | movie
『未来を写した子どもたち』

インド・コルカタ(カルカッタ)の赤線地帯で子どもたち相手に写真教室を開いているフリーカメラマンのザナ・ブリスキは、教育の機会も与えられず娼婦か薬物中毒患者か犯罪者になる以外に将来のない教え子の境遇を打開すべく、彼らの作品を世界中で展示してまわって学費をかきあつめ、入学させてくれる寄宿学校を探して奔走する。
2005年度アカデミー賞長篇ドキュメンタリー部門受賞作。

遅い。
この作品がオスカーを穫って国際的な話題を集めたのが2006年。直後に日本でも上映を期待する声が挙がったものの、結局一般公開まで2年以上もかかった。かかり過ぎ。なんでこんなにかかったのか。
作中に登場するローティーンの子どもたちは今はもう子どもではない。11歳でワールドフォトプレスのイベントにインド代表として招待されたアヴィジッドは現在19歳、フューチャーホープが運営する学校を卒業してニューヨーク大に進学し、今回プロモーションで来日も果たしている。まさに光陰矢の如し。

観ていていちばん気持ちがよかったのは、あくまでも徹底して子どもたちを画面の中心に据えた語り手の一貫性。
展開としてはブリスキがいかに子どもを助けるか─支援を募り、学校をみつけ、出願書類を揃え(いうまでもなくインドでこの作業は相当なコネと困難を要する)、家族を説得する─というところが軸になっているのだが、それをうっかりそのまま撮ってしまうとついつい彼女のヒロイズムに映画が染まってしまうことになる。
ところが映画全体は決してそうはなっていない。常に主人公は子どもたち。泣いたり笑ったり怒ったりはしゃいだり、どんな苦境にあっても子どもらしさを失わない輝く瞳なのだ。
と同時に、この作品では半ば世襲制と化した売春宿を含む赤線地帯の環境を、ことさら悲劇的にはとらえようとしていない。客観的にみれば、生まれたときから売春婦かヒモになることが決まっている人生なんて悲劇的かもしれない。だが彼らは生きているのだ。彼らの親も祖先もずっとそこで生まれてそこで暮して来た。日が昇って風が吹いて雨が降るように、それは長い長い間、当り前の人の営みでもあったのだ。それを頭ごなしに全否定してみても何の答えも生まれない。

だからこの映画はきわめて社会的なモチーフを扱いながらも、不思議と社会派映画にはなっていない。
なりようがないのだ。
ブリスキの試み(Kids with Cameras)は確かに大海の水をスプーンで掬うようなものかもしれない。子どもを助けるといっても苦難は絶え間なく彼らの前に立ちはだかる。挫折もある。
それでも彼らのような子どもたちが世界中に、今、生きているという事実だけはほんとうで、どこに生まれようと子どもは子どもであることに変わりはないというのも真実なのだ。
可哀想だとか不運だなんて憐れむだけでは意味がない。なぜなら、彼らに課された重荷はただの貧困ではないからだ(作中には裕福な“売春一家”も登場する)。人の世を支配する彼らに対する差別と偏見こそが、すべての諸悪の根源なのだから。

愛が降る街

2008年12月20日 | movie
『ラースと、その彼女』

妊娠中のカリン(エミリー・モーティマー)は自宅敷地内のガレージに住む心優しい義弟ラース(ライアン・ゴズリング)がいつもひとりぼっちなのが心配でたまらない。
ある夜、兄(ポール・シュナイダー)と彼女にガールフレンドを紹介するといってラースが連れて来たのはリアルドールのビアンカ。困惑する夫婦だが・・・。

リアルドールに愛を注ぐ日本人男性のブログ「正気ですかーッ 正気であればなんでもできる!(しょぼーん)」も大人気ですが。もう最近はこういう趣味もまったく特殊でも何でもなくなってしまった気がして、映画の中の兄夫婦の、とくに兄ガスの混乱はちょっと滑稽にも感じた。そこまでビビるほどのことでもないんとちゃう?みたいな。って冷静に考えたらそれもおかしいやろ。<自分

映画を観ていても、いつまでどれだけ観てもラースが何をどう感じどう考えているのかという心の中はまったく読めない。映画としてもそこはあえて観念的に説明しようとはしていない。はなからそんなものは投げている。
実はこの物語は、ラースやビアンカの話ではなくて、それをとりまく家族と地域社会に求められるべき愛のお話だからだ。
ラースの妄想は確かに奇想天外かもしれない。気味が悪いかもしれない。それを頭がおかしい、狂ってる、オタクだ、変態だなどといって排除し無視するのは簡単なことかもしれない。
でもそうしたところで何も解決したりはしない。無理解と無関心という無意味な敵意が助長されるだけである。
大人になるってどういうこと?とラースに訊ねられたガスは「人のためにできることをすること」と答えている。ほんとうの大人なら、相手が求めていること、自分が求められていることに応え、自ら払えるだけの犠牲は惜しむべきではないのだ。
たとえビアンカがものいわぬ人形だとしても、ラースの妄想を尊重することで誰かが損をしたり傷ついたりするわけではない。
愛やあたたかさというものは、太陽や雨のように無償で与えられるものではない。人が自らうみだし与えない限りは、どこからもうまれてこない。

コメディなんだけど全体に淡々としていて静かな映画。それなのに笑えるシーンもいっぱいあって、ちょっと不思議な雰囲気の作品でした。
あとこれはちょっとマニアックな話ですが、脇役でドラマ『Queer as Folk』に出演していたLindsey ConnellとAlec McClureがちょこっと出てました。どういうつながりがあるのかはわからないけど、このふたりはQaF以外に他の映画でも見かけたことがなかったのでちょっとびっくりしましたです。
他にも『グッドナイト&グッドラック』のパトリシア・クラークソン、『サムサッカー』のケリ・ガーナーなど、キャスティングになかなかセンスを感じる作品でした。