落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

夢みる翼

2008年12月20日 | movie
『未来を写した子どもたち』

インド・コルカタ(カルカッタ)の赤線地帯で子どもたち相手に写真教室を開いているフリーカメラマンのザナ・ブリスキは、教育の機会も与えられず娼婦か薬物中毒患者か犯罪者になる以外に将来のない教え子の境遇を打開すべく、彼らの作品を世界中で展示してまわって学費をかきあつめ、入学させてくれる寄宿学校を探して奔走する。
2005年度アカデミー賞長篇ドキュメンタリー部門受賞作。

遅い。
この作品がオスカーを穫って国際的な話題を集めたのが2006年。直後に日本でも上映を期待する声が挙がったものの、結局一般公開まで2年以上もかかった。かかり過ぎ。なんでこんなにかかったのか。
作中に登場するローティーンの子どもたちは今はもう子どもではない。11歳でワールドフォトプレスのイベントにインド代表として招待されたアヴィジッドは現在19歳、フューチャーホープが運営する学校を卒業してニューヨーク大に進学し、今回プロモーションで来日も果たしている。まさに光陰矢の如し。

観ていていちばん気持ちがよかったのは、あくまでも徹底して子どもたちを画面の中心に据えた語り手の一貫性。
展開としてはブリスキがいかに子どもを助けるか─支援を募り、学校をみつけ、出願書類を揃え(いうまでもなくインドでこの作業は相当なコネと困難を要する)、家族を説得する─というところが軸になっているのだが、それをうっかりそのまま撮ってしまうとついつい彼女のヒロイズムに映画が染まってしまうことになる。
ところが映画全体は決してそうはなっていない。常に主人公は子どもたち。泣いたり笑ったり怒ったりはしゃいだり、どんな苦境にあっても子どもらしさを失わない輝く瞳なのだ。
と同時に、この作品では半ば世襲制と化した売春宿を含む赤線地帯の環境を、ことさら悲劇的にはとらえようとしていない。客観的にみれば、生まれたときから売春婦かヒモになることが決まっている人生なんて悲劇的かもしれない。だが彼らは生きているのだ。彼らの親も祖先もずっとそこで生まれてそこで暮して来た。日が昇って風が吹いて雨が降るように、それは長い長い間、当り前の人の営みでもあったのだ。それを頭ごなしに全否定してみても何の答えも生まれない。

だからこの映画はきわめて社会的なモチーフを扱いながらも、不思議と社会派映画にはなっていない。
なりようがないのだ。
ブリスキの試み(Kids with Cameras)は確かに大海の水をスプーンで掬うようなものかもしれない。子どもを助けるといっても苦難は絶え間なく彼らの前に立ちはだかる。挫折もある。
それでも彼らのような子どもたちが世界中に、今、生きているという事実だけはほんとうで、どこに生まれようと子どもは子どもであることに変わりはないというのも真実なのだ。
可哀想だとか不運だなんて憐れむだけでは意味がない。なぜなら、彼らに課された重荷はただの貧困ではないからだ(作中には裕福な“売春一家”も登場する)。人の世を支配する彼らに対する差別と偏見こそが、すべての諸悪の根源なのだから。

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