ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

天下布武

2008-07-05 | Weblog
 織田信長が、本能寺で明智軍の急襲を受けたのは、天正10年(1582)6月2日のことでした。いまの本能寺は市役所の南にありますが、かつて信長とともに燃え落ちたのは、四条西洞院の北西に位置する広大な寺でした。
 彼の墓が阿弥陀寺(寺町通今出川上ル)にあることは、すでに書きましたが、先月の命日に同寺で、小説家の安部龍太郎さんから興味深いお話しを聞きました。
 数年前に阿部さんの『信長燃ゆ』(新潮文庫・上下巻)を読んでいたのですが、未読だった角川書店刊『天下布武』上下巻を昨日に読了しました。この本はじつに興味深い。国際スパイ陰謀小説のごとき醍醐味があります。
 国家ではスペイン・ポルトガルと、新興のイギリス・オランダ。ローマ法皇とイエズス会。毛利方に亡命している足利将軍義昭。公家筆頭の近衛前久は朝廷を代表し、足利将軍とともに、明智光秀に信長を本能寺に討つことを命じる。彼らの後ろには、最強国家スペインと密着するイエズス会の陰謀があった。
 しかし陰謀に加わっていた豊臣秀吉は、毛利・足利・近衛・明智らと交わした旧幕府復興の密約を裏切り、みずからが関白となって、全国を制圧することを目指す。
 ざっとこのようなストーリーですが、ガラシャ夫人こと光秀の愛娘であるお玉と、その若き夫・長岡与一郎、のちの細川忠興を主人公に展開するアクション推理小説ともいえる、ユニークな時代小説です。
 本能寺の変のおり、秀吉と阿弥陀寺の清玉上人、それから秀吉が盛大にとりおこなった信長葬儀の場面を『天下布武』から引用します。

 「殿のご遺体はどうした。結局見つからなかったのか」
 長岡与一郎[細川忠興]は、かたわらに立つ松井康之にたずねた。
 「変の当日、明智勢はご遺体を発見することができませんでした。それゆえ筑前守[秀吉]どのは信長公が生きておられると触れて身方をつのられましたが、実はご遺体は寺から持ち出されていたのです」
 「誰が、どうやって」
 「阿弥陀寺の清玉上人が変の直後に寺をお訪ねになり、近習の方々よりご遺体を受け取り、荼毘にふして寺に持ち帰られたそうでございます」…
 「そうか。ならば明日にも阿弥陀寺を訪ね、香華をたむけたいものだ」
 「ご胸中をお察し申しますが、それはしばらく控えられたほうが良いと存じまする」
 「何か不都合でもあるのか」
 「筑前守どのは信長公のご遺骨を引き取り、盛大な葬儀を行ないたいと考えておられますが、清玉上人は引渡しを拒んでおられるそうでございます。その争いが険しいゆえ、他の大名衆も寺に参じるのを遠慮しておるそうでございます」
 「そうか。上人がそうなされるのは、余程の事情があるからであろう」
 秀吉は疑わしいと、上人も思っておられるのだ。与一郎はそう察し、同志を得たような心強さを覚えた。
 ……
 十月十五日、秀吉は信長の葬儀を京都の大徳寺で行なった。
 信長の子である養子秀勝を表に立てて大々的な葬儀をすることで、織田家の承継者としての実力を内外に示そうとしたのである。
 だが、この葬儀に信長の遺骨はなかった。
 本能寺の変の後、信長の遺骨は阿弥陀寺の清玉上人の手によって保管されていた。…
 このことを知った秀吉は、阿弥陀寺で葬儀を行ないたいと申し入れたが、清玉上人はきっぱりと断った。それなら遺骨だけでも渡してほしいという要求にも、頑として応じなかった。
 これは織田家を乗っ取ろうとする秀吉の野望を察したからだというが、あるいは本能寺の変に秀吉が関わっていたことを知っていたからかもしれない。
 秀吉は勅願僧である上人に無理強いすることもできず、信長の木像を作って遺骨のかわりとし、大徳寺で盛大な葬儀をすることにしたのだった。

<2008年7月5日 下天夢幻>
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