ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の謎 第4回 <石峰寺五百羅漢 その1>

2016-12-10 | Weblog
<吉井勇が愛した五百羅漢>
 
 深草伏見稲荷のすぐ南に黄檗の禅寺、百丈山石峰寺(せきほうじ)がある。江戸時代の画家、伊藤若冲が寛政十二年九月十日(1800)に没し土葬された墓と、三十三回忌に建てられた筆塚が、境内の見晴らしのいい一角にたたずんでいる。彼は晩年、亡くなる八十五歳の年まで三十年近い歳月、心血熱情をこの寺に注ぎ尽くした。
石峰寺は、若冲の遺作である石像五百羅漢で有名だ。かつて歌人の吉井勇は、若冲の五百羅漢をこよなく愛した。吉井の随筆「羅漢の夢」を引用する。
 
 うとうとしているとわたしは、ひとつの不思議な夢を見た。それはいかにも伏見の石峰寺の裏山らしい。どっちを向いても石の羅漢だらけで、目を閉じているもの、腕を組んでいるもの、口を開けているもの、寝ころんでいるもの、立っているもの、あぐらをかいているもの、首をかしげているもの、空を仰いでいるもの、うつむいているもの、このほかありとあらゆる形と顔つきとをした羅漢が、そこら一面に群がっていました。それが何かの拍子にいっせいにこっちを向いて、大きな声を立てて笑った、と思ったら夢が覚めました。
  羅漢図をうつらうつらに描くなり病めば心も寒きなるべし
 
 昭和十七年六月二十六日の夢だが同月五日、吉井は盲腸周囲炎のために京都大学病院に入院した。そして月なかばまで危篤におちいり、生死の境をさまよった。彼はこの夢を回復直後、洛東の病床でみた。小さな自分というものが、何か大きなもののなかに、楽しく融け込んでいく思いを体験したと語っている。
 
  『若冲 五百羅漢 石峰寺』 芸艸堂 2013年刊
 
 東京人の吉井がはじめて石峰寺を訪ねたのは、昭和十三年十一月、京の北白川に越してきた翌月、歌の友数人に案内されてのことであった。
「わたしの目を驚かしたのは、その落葉におおわれた丘のうえばかりでなく、すぐ近くの深い谷間にまで、累々として横たわっている、無数の石の羅漢像であった。わたしは遠く愛宕につづく西山に落ちかかっている秋の日を眺めながら、立ったり、倒れたり、坐つたりしている羅漢像を、この世を離れた仙境にでも来たような心持で、ひとつびとつ見て歩いた。」
 
 質の粗い石にごく稚拙な手法で彫ってあるので、長い年月の間に櫛風沐雨(しっぷうもくう)、磨ったり、欠け損じたり、あるいは苔が生えたり、土に埋もれてしまって、いまではもう原形をとどめないものも多い。吉井は、かえってその方が飄逸洒脱(ひょういつしゃだつ)な味があるという。
 そして、なかでも彼が最も親しみを感じたのは、悠然と坐って大きい腹を撫でるような格好で空をあおいでいる羅漢であった。
  みずからの命楽しむごとくにも 太腹羅漢空を仰げる
 
 なおこの石、白川石は京都東山・白川の山中でとれる石材だが、岩質のあらい、風化しやすい花崗岩である。若冲は、歳月とともに丸みを帯びる石を、あえて選んだのかもしれない。石や岩ですら、永遠不滅ではない。いつかは丸くなりそして砂にかえっていく。
 阪田良介住職に聞いたが、コケが大敵だそうだ。苔が石をすこしずつ砕いていくとのこと。防止するには、ピンセットで一本ずつコケを引き抜く。石像は五百体をこえるので、この作業には気が遠くなる。訓練をうけた多人数のボランティアが集まらなくてはできない業であろう。「あと二百年もしないうちに、石像はほぼすべてが、単なる石ころになってしまう」。和尚は話しておられた。
 
 ところで吉井勇が京都に住みついて、静かな晩年を送ることが出来るようになったのは、この太腹羅漢をみてから、人生というものに対する考えが変わったためではないだろうかという。ゆきずりの住居と思っていた京都に、ずっと長く住みつき、ここを終のすみかとするようになったのも、あるいは羅漢たちが、離してくれないからではないか。石峰寺の羅漢と何か因縁があるのではないかと、彼は記している。
 京都北白川に越して来、その翌月に羅漢たちにはじめて出会ってから二十二年の後、昭和三十五年十一月十九日寂。かつて羅漢の夢をみた、同じ京都大学病院の病床で息をひきとった。最後の言葉は「歌を……歌を……」。来迎の羅漢たちに、彼は話しかけたのではないだろうか。享年七十三。
 
 
<椿山荘の羅漢>
 
 東京の椿山荘にも若冲の石造羅漢像が、いまも十九体ある。江戸時代に京都深草でつくられた石像羅漢が、なぜ東京にあるのか。最初知ったとき、不思議だった。若冲の石像は江戸時代には、京都から流出していないはずである。外部に出たのは明治のはじめに違いない。
 椿山荘の羅漢は石峰寺と同じく、若冲の下絵にもとづき、あるいは素石に彼が線を墨で描き、石工によって彫られた石像である。大きさや姿形石質、伝承ともすべて一致する。
 
  椿山荘の羅漢たち
 
 ところで、これと関わりが推測される文書が、黄檗山萬福寺に残っている。若冲没後、ちょうど百年にあたる明治三十三年(1900)、京都府知事宛書状の控写しである。なお文書には関係者全員が自署捺印している。
 
羅漢献上之儀ニ付御願 
京都府下紀伊郡深草村石峰寺   
一當寺境内山上ニ有之石像五百羅漢之内数拾壱体
小松宮殿下御所望ニ付取調候処尤モ全体無之且大意ニ破摧シ當時維持困難ノ折柄幸ヒ
殿下御所望速ニ献上仕度依テ檀信徒及組寺法類等逐協議候処双方異儀無之仍而連署ヲ以テ上願仕候間何分ノ御指令相成度此段願上候也
明治三十三年六月廿八日
右石峰寺住職 阪田拙門 
右寺檀信徒総代
 石岡幸次郎 
 玉田安之助
 石田喜助
 雨森菊太郎
仝 京都府下上京區鞍馬口 閑臥菴住職 法類 辻無染
仝 京都府下紀伊郡堀内村海宝寺住職 組寺 荒木太觀
仝 郡仝村 聖恩寺住職 第十五區 黄檗宗務取締 林田翆巌
京都府知事高崎親章殿
 
 同日付けの似た文書がもう一通ある。要訳すると、石峰寺境内山上にある石造五百羅漢のうち、数十一体を小松宮彰仁親王がご所望につき献上したく、組寺、法類、檀信徒は協議し合意したので、連署をもってお願い申し上げる。ただこの文書には、破砕のため当寺は維持が困難である旨の文言はない。
 署名捺印は前記と同じで、阪田拙門、石岡幸次郎、玉田安之助、石田喜助、雨森菊太郎、辻無染、荒木太觀。記載事項に相違なしとして林田翠巌。宛名は黄檗宗管長堂頭大教正吉井虎林だ。
 当然、府知事は承諾したはずだ。宮様が所望し、関係するすべての寺が、檀信徒総代全員も同意している。ただ京都府に問い合わせたところ、受理された文書は現在見当たらないとのことだった。しかし間違いなく、羅漢石像数十体は宮家にもらわれていったはずである。
 
 さて椿山荘だが、明治期は維新の元勲・山縣有朋邸だった。その後、大正期に新興財閥の藤田組に譲られた敷地面積一万八千坪、広大豪壮な庭園邸宅である。藤田組の創業者は男爵藤田伝三郎、長州出身の政商。彼は明治十年(1877)の西南戦争で巨利を得、本拠が同じ大阪の住友家にも比肩する財閥を、一代で築いた英傑である。椿山荘は現在、藤田観光のホテルで、深い森に囲まれた都心の別天地として有名だ。
 小松宮は羅漢像を石峰寺から譲渡された後、三年ほどへた明治三十六年に亡くなった。その後、羅漢たちは山縣有朋の手に渡ったのでないか。そして藤田が引き継いだのだろう、と筆者は勝手に推測したのだが、実はそうではなさそうである。
 
 若冲の石像羅漢像を所望した小松宮彰仁親王について、略歴をみておこう。彼は親王家筆頭の伏見宮家邦家親王の第八子として、弘化三年(1846)に生まれた。安政五年(1858)に親王宣下、仁和寺門跡となる。幕末動乱のなか、慶応三年十二月(1867)に天皇より復飾を命ぜられ、環俗して嘉彰と称し議定に任じられた。翌慶応四年・明治元年には軍事総裁、ついで外国事務総裁、海陸軍務総督、兵部卿、会津征討総督。そして陸軍大将などをつとめる。
 明治十五年(1882)に小松宮に改称し、名を彰仁に改めた。日清戦争では参謀総長有栖川宮熾仁の薨去により、後任を命ぜられる。このふたりは、ともに維新と明治前半期の軍を象徴する宮であった。
 
 錦の御旗をひるがえした両宮の江戸進軍を歌にしたのが日本初の進軍歌「風流トコトンヤレ節」。宮サンとは、有栖川宮熾仁親王と小松宮彰仁親王、ふたりの宮である。歌は、長州藩士の品川弥次郎がつくったという。♪宮サン宮サン…オ馬ノ前デ、ヒラヒラスルノハナンジャイナ…アレハ朝敵征伐セヨトノ錦ノ御旗ジャ知ラナイカ…トコトンヤレナ。
 小松宮家本邸は、はじめ神田駿河台にあったが後に赤坂葵町に移る。そして宮は晩年に浅草区橋場に別邸を構える。京都別邸は丸太町通川端東入ル、現在は天理教河原町大教会になっている広大な土地にあった。最初この屋敷は桜木御殿と呼ばれ近衛家抱邸だったが、小松宮に譲られ、明治二十年代には山階宮家に移り、明治三十三年に天理教が購入している。
 宮がこの邸宅を手放したのはおそらく別邸「楽寿園」の建設のためであろうと思う。明治二十四年から翌年にかけて築造された静岡県三島市の楽寿園は、じつに広大な庭園、豪邸である。現在は三島市立公園になっている。
 しかし不思議だが、宮の本邸跡にも別邸跡にも一切、羅漢たちの痕跡がない。なお晩年、京都では旅館川田別邸などを常宿にしていたが、この旅館はいまはない。
 小松宮は明治三十六年二月十八日に没す。死因は過労が原因の脳充血発作であった。前年には体調不良をおして、英国皇帝戴冠式参列のために明治天皇の名代として渡航している。行年五十八歳、国葬で送られた。なお小松宮には子がなく、宮家は一代で絶えた。
 
ところで椿山荘だが、もとは上総国久留里藩黒田家の下屋敷だった。明治十一年(1878)に公爵山縣有朋が入手し、もとの地名「椿山」にちなんで椿山荘と名づける。なお彼の別邸は京都に無隣庵が新旧二庵あるが、いずれにも羅漢の痕跡は見当たらない。
 椿山荘は大正七年(1918)に、山縣から藤田組二代目の男爵藤田平太郎に譲られた。理由は、晩年を過ごすには広すぎるから。また丹精をこめて造りあげた名園を永久に保存してくれる人物として、同じ長州出身の故藤田伝三郎の長子、平太郎は適任であった。
 藤田平太郎の妻、富子は『椿山荘記』に記している。椿山荘にはかつて一休禅師の建立という開山堂があった。山城国相楽郡の薪寺から移築したものだが、「堂のまわりは熊笹の丘で、石の羅漢仏十数体を点々と配置してあります。この石仏は若冲の下画と称し、古くより大阪網島の藤田家の庭園にあつたものを移した。」
 富子は伯爵芳川顯正の三女として明治十五年に生まれた。父顯正は幕末、伊藤俊輔、のちの伊藤博文に英語を教えたひとである。明治期には東京府知事、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを歴任。彼も長州閥に属したひとである。
 平太郎が富子と結婚したのは明治三十四年二月である。網島のふたりの新居は、日本郵船の大阪支店長だった吉川泰次郎の屋敷を、藤田伝三郎が明治十九年に購入し、まわりの地を買い足した広大な敷地であった。富子は結婚当初から網島の豪邸で暮らす。大阪網島は近松門左衛門『心中天の網島』で知られる。
 小松宮が羅漢を所望したのは明治三十三年だった。その翌年に結婚した富子は「羅漢は古くより大阪網島の庭園にありました」と記している。椿山荘の羅漢たちはかなり以前に、宮とは別の経路を通じて、深草石峰寺から大阪網島をへて、大正年間に東京椿山荘へ移されたのであろう。
 それと、もと高麗橋通にあった藤田旧邸から網島に移った可能性も考えられる。また吉川泰次郎の庭に、明治十九年以前からあったのかもしれない。移動経路は不明だが、石峰寺から明治のはじめ、廃仏毀釈の時期に出たに違いない。江戸時代には、若冲石像が石峰寺から流出したという記録は一切ない。
 ちなみに網島の旧藤田本邸は現在、藤田観光太閤園、藤田美術館、大阪市長公館、藤田邸跡桜之宮公園などが並ぶ地である。なかでも藤田伝三郎が親子二代にわたって集めた美術品は、大阪空襲にも幸い耐え残ったが、質量ともに実に見事な逸品揃いである。昭和初年の金融恐慌時にいくらか売却され散失したが、それでも同家所蔵品は数千点、うち国宝重要文化財は五十点をこえる。それらを収蔵する財団法人藤田美術館の設立に尽力したのは富子と義妹の治子であった。昭和二十九年に開館した同館初代館長は、藤田富子がつとめた。
 
<2016年12月10日 南浦邦仁>
 
 
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