ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

ミャンマー 維新 (1)

2016-03-02 | Weblog
 久しぶりのブログ更新です。Eマガジン「LAPIZ」春号に「ミャンマー維新」を寄稿しました。ここでは4回分割で連載します。もと原稿は締め切りのために2月20日現在の情報までしか記載しておりません。しかしその後もミャンマーの政治事情は進展しています。最新情報も追加しますので、5回連載になるかもしれません。



 暴力の行使を完全に否定し、流血を絶対のタブーとする。だが無血革命は断固成功させる。ミャンマーの新与党、国民民主連盟NLDのメンバーたちはそのように決意した。そしてアウンサンスーチー党首とともに彼らはいま激流を渡っている。
 これまで国軍が半世紀もの長期にわたり同国を支配し、危険人物とみなされたスーチーはのべ15年間も拘束され自宅軟禁下で過ごしてきた。その彼女がやっと、ついに国政の表舞台に立った。
 昨年11月の総選挙で圧勝したNLD党員たちは、2月1日に召集された新議会にはじめて登場した。この日の朝、ピンクにちかい淡い赤色の民族衣装を着たスーチーも登院。100人近い報道陣が待機する表玄関を避け、国会裏口からスタッフ数人とともに足早に入り下院議場に着席した。
 ミャンマーではいま、たぐいまれな無血革命が進行している。成功を祈らずにいられないのだが、NLDの前には国軍のみならず、小数民族問題などなど難題が山積している。
 「スーチーに対する国民の期待が高すぎて、新政権がつまずいた時の反動が心配だ」。同国内ではそのような声も強いという。
ミャンマー維新の進行を、一般公開情報をベースに時系列で整理してみた。

2015年11月8日 総選挙でNLDが圧勝。
上下両院の改選議席の8割にあたる390議席を獲得した。うち9割は候補者公募で選ばれた新人議員だ。多くは医師や弁護士、教師の出身で政治経験は乏しい。またほとんどが若手で、ミャンマー民主化運動の歴史も知らない。
結党直後から支えてきた民主化運動のわずかばかりの闘士たちは、みな老人ばかりになってしまった。スーチーも70歳である。同党は学生運動を源流とし、かつては若々しいイメージだったが、すでに結党から27年を超えた。
テインセイン現大統領はまだ開票作業が進んでいる段階で、スーチーに祝福の電話を入れた。そして自らの政党であるUSDPの敗北を潔く認め、平和的な政権移譲を約束した。

12月2日 スーチーはテインセイン大統領と、そして国軍総司令官のミンアウンフラインとも相次いで会談。
国軍は「国の平和と安定、発展に向け、双方が協力することで合意した」とする声明を発表した。

12月4日 スーチーは自ら希望して、ミャンマーの実質最高権力者とされるタンシュエ元上級大将と会談。
かつてNLDを弾圧した張本人である独裁者タンシュエとの会談は、NLDの進む方向を根本からゆさぶるものであったであろう。彼女は新政権におけるNLDと国軍の協力を議論した。スーチーは会談で、軍政時代の人権侵害を訴追しない方針を伝え、「過去の出来事に恨みはない。軍を含むすべての勢力と協力するため話し合いたい」と和解を呼びかけた。「真のナショナリズムは寛容の上に成り立つ」とNLDも表明した。
スーチーは国軍出身のテインセイン現大統領らとともに、政権移譲の特別委員会も設置した。元軍人ら大統領府の閣僚とNLD党幹部は、新政権発足まで毎週、政権引き継ぎなどの情報交換を進めている。

2016年1月4日 独立記念式典のこの日、スーチー党首は居並ぶNLD党員に訓示した。
「国民の負託を忘れるな」「路上駐車をするな」「私は大臣になりたい人を好きではありません。今後、手紙で要請してきた人は処罰します」。スーチ-は苦言を連発した。
ある新人議員は「ほかの政党や議員と協力していくよう、スーチー党首から指示がありました」

1月10日 最大都市ヤンゴン市内のホテルにNLDの若手約200人が集まった。
昨年12月にはじまった教育・研修プログラムを受ける新人議員たちだ。憲法や予算編成など12分野で講師を招き、政治家の基礎知識を猛勉強している。党幹部は「君らの勝利の75%はスーチー党首の名声によるものだ。君ら自身は何の経験もないから、学ばなければならない」と気合をいれた。新議員たちはミャンマー版「スーチーチルドレン」である。議会をいちから学び、民主主義にいちから取り組むという姿勢である。
<2016年3月2日>

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