タイタニックに乗船していたただひとりの日本人、細野正文(1870~1939)は最後の最後に救難ボートに乗り移った乗客です。20隻あったボートの最終の1隻です。ボートを操る船員が叫びました。「あとふたり!」。ふたり目に艇に向って飛んだのが細野です。船からボートに乗り移ったほんとうに最期のひとりでした。
正文の孫はミュージシャンの細野晴臣氏。彼の父は祖父の帰国後に生まれました。もし正文が水難死しておれば、現在活躍中の細野晴臣は存在しなかったのです。また生まれたのは1947年。祖父の死の8年後で顔も知りません。
晴臣はつぎのように語っています。祖父が「生還して、鉄道局の同僚も家族も喜んで迎えてくれましたが、やっぱり軍国時代で世間体があったんでしょうね。帰国後役職から降りて、以来嘱託として勤めていたそうです。男のくせに助かって、なんで生きて帰ってきたんだ、死んでこい、と。執拗に攻撃されたこともあったみたいです。」
祖父の細野正文がもし生還していなかったら、いまの細野晴臣はなかった。彼はいつもこの問題にさらされているという。「うちの父自身が祖父が帰ってきてから生まれた子供なので、父自身がそういう気持ちだったんでしょうね。」
「普通の人でもなぜ生まれてきたんだろうと考えることはあるでしょうが、こういう事実として生まれてきたかどうかっていうことを突きつけられた…でも、生まれのことはどうしようもない。それは宿命だから。運命は自分で自由に出来るけど、宿命はどうしようもない。…ですから、僕の宿命は祖父の運命が作ったものなんです。だから責任を持ってくれよって言いたくなっちゃうんですよ、祖父にも。ほんとに正しかったんだろうな、信じてるからなと。」
晴臣はタイタニックが沈んだ現場に行きたいという。「そこに行って、決着をつけたい。生きてきた家族としては、亡くなった方々に対して、そこでお祈りを捧げておかないと落ちつかない」
彼がいちばん思うのは、沈んだ人はもちろん、生き残った人にとっても、とてつもなく大変な事件だったということである。
それはある意味、東北の大津波も同じではないか。死者はもう悩み苦しまない、しかし生者はつねにつねに抱き続けている。
細野正文がボートに乗り移ったときの様子を、彼の手記からみてみます。タイタニックに20隻あった救命ボート、その最後の1隻の物語です。これに乗らなければ、彼の生命はまずない。指揮員がボートに乗った人数を数え、定員まで「あとふたり」と叫んだ。すると甲板から男性ひとりが、吊り下げられたボートに飛び降りた。あとひとり乗れる。細野も思わずボートに向かって飛んだ。そして飛びこむと同時に、ボートはするすると降りて海に浮かんだ。以下は手記原文です。
生命モ本日ニテ終ルコトト覚悟シ別ニアワテズ、日本人ノ恥ニナルマジキト心掛ケツツ尚機会ヲ待チツツアリ。此間船上ヨリハ危急信号ノ花火ヲ絶エズ上ゲツツアリ、其色青ク其声スゴシ。何トナク凄愴ヲ感ズ。船客ハ流石ニ一人トシテ叫ブモノモナク皆落付キ居レルハ感ズベシ。ボートニハ婦人連ヲ最先ニ乗ス。其数多キ故右舷ノボート四隻ハ婦人丈ニテ満員ノ形ナリ。其間男子モ乗ラントアセルモノ多数ナリシモ、船員之ヲ拒ミ短銃ヲ擬ス。此時船ハ四十五度ニ傾キツツアリ。ボートガ順次ニ下リテ最後ノボートモ乗セ終リ既ニ下ルコト数尺、時ニ指揮員人数ヲ数ヘ今二人ト叫ブ其声ト共ニ一男子飛ビ込ム。余ハ最早船ト運命ヲ共ニスルノ外ナク最愛ノ妻子ヲ見ルコトモ出来ザルコトカト覚悟シツツ凄愴ノ思ヒニ耽リシニ今一人ノ飛ブヲ見テ責メテ此ノ機ニテモト短銃ニ打ルル覚悟ニテ数尺ノ下ナル船ニ飛ビ込ム。幸ナル哉、指揮者他ノ事ニ取紛レ深ク注意ヲ払ハズ且暗キ故男女ノ様子モ分ラザリシナランカ、飛込ムト共ニボートハスルスルト下リテ海ニ浮ブ。
参考 細野晴臣談「編集された『事実』」 筑摩書房『タイタニックの最期』所収解説 1984年(ウォルター・ロード著原書1955年)ちくま文庫
<2012年5月27日 この稿つづけます 南浦邦仁記>