ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 五百羅漢 №1 <若冲連載19>

2008-11-11 | Weblog
吉井勇の若冲「五百羅漢」(1)  
 深草伏見稲荷のすぐ南に黄檗の禅寺、百丈山石峰寺(せきほうじ)があります。江戸時代の画家、伊藤若冲が寛政十二年(一八〇〇)九月十日に没し土葬された墓と、三十三回忌に建てられた筆塚が、境内の見晴らしのいい一角にたたずんでいます。彼は晩年、亡くなる八十五歳の年まで三十年近い歳月、心血熱情をこの寺に注ぎました。石峰寺は、若冲の遺作である石像五百羅漢で有名です。かつて歌人の吉井勇は、若冲の五百羅漢をこよなく愛しました。吉井の随筆に「羅漢の夢」があります。
 うとうとしているとわたしは、ひとつの不思議な夢を見た。それはいかにも伏見の石峰寺の裏山らしい。どっちを向いても石の羅漢だらけで、目を閉じているもの、腕を組んでいるもの、口を開けているもの、寝ころんでいるもの、立っているもの、あぐらをかいているもの、首をかしげているもの、空を仰いでいるもの、うつむいているもの、このほかありとあらゆる形と顔つきとをした羅漢が、そこら一面に群がっていました。それが何かの拍子にいっせいにこっちを向いて、大きな声を立てて笑った、と思ったら夢が覚めました。
 羅漢図をうつらうつらに描くなり病めば心も寒きなるべし

 昭和十七年六月二十六日の夢ですが同月五日、吉井は盲腸周囲炎のために京都大学病院に入院。そして月なかばまで危篤におちいり、生死の境をさまよったのです。彼はこの夢を回復直後、洛東の病床でみました。小さな自分というものが、何か大きなもののなかに、楽しく融け込んでいく思いを体験したといっています。
 東京人の吉井がはじめて石峰寺を訪ねたのは、昭和十三年十一月、京の北白川に越してきた翌月、歌の友数人に案内されてのことでした。「わたしの目を驚かしたのは、その落葉におおわれた丘のうえばかりでなく、すぐ近くの深い谷間にまで、累々として横たわっている、無数の石の羅漢像であった。わたしは遠く愛宕につづく西山に落ちかかっている秋の日を眺めながら、立ったり、倒れたり、坐つたりしている羅漢像を、この世を離れた仙境にでも来たような心持で、ひとつびとつ見て歩いた。」

 質の粗い石にごく稚拙な手法で彫ってあるので、長い年月の間に櫛風沐雨(しっぷうもくう)、磨ったり、欠け損じたり、あるいは苔が生えたり、土に埋もれてしまって、いまではもう原形をとどめないものも多い。吉井は、かえってその方が飄逸洒脱(ひょういつしゃだつ)な味があるといいます。
 そして、なかでも彼が最も親しみを感じたのは、悠然と坐って大きい腹を撫でるような格好で空をあおいでいる羅漢でした。
 みずからの命楽しむごとくにも 太腹羅漢空を仰げる

 なおこの石、白川石は京都東山・白川の山中でとれる石材です。岩質のあらい、風化しやすい花崗岩です。おそらく若冲は、歳月とともに丸みを帯びる石を、あえて選んだのではないでしょうか。石や岩ですら、永遠不滅ではないのです。いつかは砂に、かえっていきます。
 ご住職に聞いたのですが、コケが大敵だそうです。苔が石をすこしずつ砕いていくとのこと。防止するには、ピンセットで一本ずつコケを引き抜く。石像は五百体をこえますので、この作業は気の遠くなるような話しです。訓練をうけた多人数のボランティアが集まらなくてはできない業です。あと二百年もしないうちに、石像はほぼすべてが、単なる石ころになってしまうと聞きました。嘆息…。
<2008年11月11日 南浦邦仁>
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