ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 五百羅漢 №4 <若冲連載22>

2008-11-26 | Weblog
椿山荘の羅漢 (2) 

 同日付けの似た文書がもう一通あります。要訳しますと、石峰寺境内山上にある石造五百羅漢のうち、数十一体を小松宮彰仁親王がご所望につき献上したく、組寺、法類、檀信徒は協議し合意しましたので、連署をもってお願い申し上げます。―ただこの文書には、破砕のため当寺は維持が困難である旨の文言はありません。
 署名捺印は前記と同じで、阪田拙門、石岡幸次郎、玉田安之助、石田喜助、雨森菊太郎、辻無染、荒木太觀。記載事項に相違なしとして林田翠巌。宛名は黄檗宗管長堂頭大教正吉井虎林です。
 当然、府知事は承諾したでしょう。宮様が所望し、関係するすべての寺が、檀信徒総代全員も同意しているのです。ただ京都府に問い合わせたところ、受理された文書は現在見当たらないとのことでした。しかし間違いなく、羅漢石像数十体は宮家にもらわれていったはずです。
 さて椿山荘ですが、明治期は維新の元勲・山縣有朋邸でした。その後、大正期に新興財閥の藤田組に譲られた敷地面積一万八千坪、広大豪壮な庭園邸宅です。藤田組の創業者は男爵藤田伝三郎、長州出身の政商でした。彼は明治十年(一八七七)の西南戦争で巨利を得、本拠が同じ大阪の住友家にも比肩する財閥を、一代で築いた英傑です。椿山荘は現在、藤田観光のホテルで、深い森に囲まれた都心の別天地として有名です。
 小松宮は羅漢像を石峰寺から譲渡された後、三年ほどへた明治三十六年に亡くなりました。その後、羅漢たちは山縣有朋の手に渡ったのでないか。そして藤田が引き継いだのだろう、と筆者は推測したのですが、実はそうではなさそうです。
<2008年11月26日 南浦邦仁>

コメント
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