ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

巖谷小波

2008-02-11 | Weblog
 昼夜降り続いた雪も、昨早朝にはやっと止み、今日はポカポカと春のような陽気の京都でした。実は、こんな日を待っていたのです。近江甲賀の城下町で宿場町だった水口(みなくち)に前々から、車で行きたかったからです。残雪が残り、遠方の連山の頂に雪を冠すれど、道路には雪がない。そんな日を、待っていました。
 水口は明治時代にはじめて児童文学を確立した、巖谷小波の故郷です。かつて彼の名前をはじめて見たとき、わたしは読めませんでした。いわたにこなみ?いわやしょうは?……。正しくは「いわやさざなみ」です。
 別号を漣山人(さざなみさんじん)といいます。ちかごろ、いちばん好きな人物が作家・巖谷小波です。彼についての本は今年になって百冊ほど目を通してしまったほどです。
 巖谷家は代々、水口藩の藩医でした。父の巖谷一六も医師でしたが、尊皇攘夷の志士として活躍し、維新後に出世したひとです。書が達者で、明治初期の書三大家とよばれたほどです。
 小波は明治三年に東京に生まれます。本名は季雄。弱冠二十二歳で刊行した創作冒険小説『こがね丸』が大ベストセラーになりました。そして古今東西に材をとった昔噺や、創作お伽噺などの膨大な数の作品を残します。亡くなったのは昭和八年、享年六十四歳。辞世の句は「極楽の 乗物やこれ 桐一葉」
 彼はたくさんの昔噺や児童向け物語を残しました。その後に興隆する少年少女文学や言文一致の文体は、小波からはじまったのです。
 ところで号「漣山人」を分解すると、サンズイの水が連なる淡海のサザナミ、そして連山は比叡から連なる比良の山並み、そこから名づけたのであろうと推測し、確認のために湖東甲賀まで出かけたのです。

 わたしの住まいは洛西大原野ですが、水口まで一本道なのには驚きました。国道九号線の芋峠を起点とすると一目散に、地図も不要でただまっすぐ東に進めばいい。
 桂川を越えて町に入る。堀川通から国道一号線に呼び名は変わるが直進です。そして鴨川の五条大橋を渡る。弁慶と牛若丸がはじめて出会う、なつかしい橋です。
 東山を越えると、大石蔵之助が隠棲していた山科です。まもなく西から伸びる三条通・旧東海道と合流して、逢坂越えを通って大津へ。峠下からは旧街道と別れて一路、草津に向かいます。そして二叉に分岐する地点は、左が彦根・敦賀に向かう国道八号線、右が水口・鈴鹿峠・伊勢へと向かう一号線です。
 野洲川を遡行して水口に着いたのは、出発からちょうど二時間後でした。まずは大岡寺(だいこうじ)に寄りました。小波の父、巖谷一六の石碑を見るためです。だいたいが、一六という名がふざけています。明治初期、官吏の休日は一と六のつく日だったのです。四日出仕して一日休む。「一六」とは「休み休み」の意味なのです。冗談も休み休みにと、わたしは寺でつい口走ってしまいました。
 ところでこの石碑の除幕式は明治四十四年秋、一六の七回忌でしたが、小波は遺族を代表して出席しました。彼の詠んだ句が、「菊紅葉 石に着せたる 錦かな」。 小説家の尾崎紅葉は文学結社「硯友社」を主宰しましたが、小波も社に属し、紅葉は友であり師でした。紅葉の『金色夜叉』の主人公・間貫一のモデルは、意中の女人に振られた小波なのです。もちろん彼は、高利貸しになどなりませんでしたが。
 寺には一六の師・中村栗園の石碑もあります。碑文は一六の書です。四面を漢文で刻んでいますが、美しい楷書体で、わたしですらほとんどの字が読めました。きっと、師匠のことを読んでほしい、知ってほしい、そのような一念からこの字体を選んだのでしょう。なお一六の墓は、京都東山・霊山の維新墓地にあります。坂本龍馬と中岡慎太郎の墓を過ぎた上方、木戸考允の墓のすぐ右です。
 しかし息子の小波の字は悪字で、判読が難しい。かつて「わからないものは、小波さんの字」とみなに笑われ、本人も「おれの字は、おれにも読めないことがある」と自慢したりしています。
 小波は日記を克明につけたひとです。十六歳から亡くなる六十四歳まで、延々と続けたのですが、解読が困難なため活字に翻刻されたのは、書きはじめた明治二十年から八年間分だけです。しかしいまも、小波研究者によって、翻刻に向けて地道な解読作業が続けられています。
 寺のつぎに、水口城を訪れました。維新後は廃城になり、現在では復元された櫓や石垣の一部が残るだけですが、堀の跡が城蹟をはっきりと教えてくれます。また城の堀土手には、ヒガンバナが群生していました。といってもこの季節ですから花はなく、葉ばかりが繁っていますが、秋には見事な咲きっぷりでしょう。九月には再訪します。
 そして歴史民俗史料館が、お目当てです。巖谷父子の記念室があるからです。地元の方に何度も道を教わり、やっと訪れたところ、今日は旗日ですが月曜日。休館の札が玄関を飾っていました。実に残念。秋といわずに桜花の季節に再訪することにしました。大岡寺の桜が、水口八景のひとつだからです。近江伊賀出身の芭蕉が、この寺の桜花を詠んでいます。「命二つ 中に生きたる 桜かな」

 さて腕時計をみると、もう三時。おやつの時間ですが、わたしは何かを忘れています。初老にもなると物忘れがはなはだしい。一所懸命考えてみますと、忘れていたのは昼食です。何かに夢中になると、いつもご飯を忘れてしまうのです。すでに食べたことを忘れたのではないということを、念のため付加しますが。
 帰路は旧街道を選びました。水口から旧東海道をひた走り、俵藤太の瀬田唐橋を渡って瀬田川右岸を琵琶湖に向かう。淡海の彼方には冠雪の比良連峰が見事でした。湖面にはサザナミが走る。そしてまもなく、湖に出っ張る膳所(ぜぜ)城跡。
 円山応挙や長澤蘆雪、そして大典和尚などと親交を結んだ京の儒学者、皆川淇園は膳所藩の藩儒を兼任していました。若冲とも接点があったひとです。
 そして左手に入ると、旧東海道に面する義仲寺があります。木曽義仲と松尾芭蕉の墓が並んでいますが、又玄句「木曽殿と 背中合せの 寒さかな」で知られます。この寺を十八世紀に再興したのが、蝶夢和尚です。淇園や大典と親しかった俳僧です。また寺には、若冲の天井画が十五面あります。
 そしてまっすぐ行くと、一方通行の進入禁止にさえぎられ、左折して国道一号線に入ります。逢坂の峠を越えて山科からは、大路の一本北を平行する旧三条通を走ります。この道がもと東海道の車道ですが、鴨川三条大橋で終点です。
 それからまだまだ桂川を渡り、桂離宮横から旧山陰街道に入ります。ずっと行けば、老の坂を越えて亀岡、丹波へと向かう丹波路です。
 老の坂手前の芋峠が、今朝の出発点です。ここに帰り着いて、まずレンタルビデオ屋さんに昨日借りた高倉健さんのDVD二本を返却しました。そしてまた健さんの映画「昭和残侠伝 破れ傘」を借りてしまいました。
 さてやっと小旅行を終えますが、実に充実した一日でした。ところで今日は、休日ですのに一冊の本も読んでいません。読書をしない日も、たまにはいいもんだと、しみじみ思います。
<2008年2月11日 鈴鹿の冠雪は御在所山と雨乞岳?>
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